「いのち」は何のためにあるのか
Buongiorno.
友人の旅先における臨死体験から、生と死の話になったその回顧録。
意識が遠のく中で友人はたくさんの人の顔を思い出したと語る。
人生やヒトの歴史を貫くものは、「愛」であると。
先祖は、食べ頃の果実を手に入れるために立体的視野を発達させた。
これにより消化に時間がかからず活動量を増加させることができた。
代わりに失った広範な視野を補うために、仲間とのコミュニケーションや表情の豊かさを発達させてきた。
1人では生存できないことが、遙か昔からプログラムに組み込まれている。
本能においては自らが生き残ることが最優先となっているはずだが、理性という武器によって自らを制することができる。
ヒトは「他者を助けたい」と純粋に思える可能性を秘めた生物なのだ。
時に己のいのちをコントロールすることで生まれる美談をあなたもご存知のはずだ。
おかげで今日も私たちが生きていられる。
こうして文字を打ち発信する手段も、その活動のためのエネルギーも、すでに社会基盤に組み込まれてしまって簡単には見えなくなっているものの、先駆者の「他者を助けたい」という気持ちのつながった結果であると言えるのではなかろうか。
しかし「『いのち』は他者を愛するためにある」と結論づけるのは勇み足につながりかねない。
他者を愛するレベルに達することができるのは、マズローの五段階欲求を超えた六段階目にたどり着いた人間だろう。
ニーチェの述べた「超人」や、仏教の「悟り」への道中の関所となるであろうこの六段階目にたどり着くには、五段階を満たす必要がある。
果たして『いのち』は自らへ愛を向けずして、他者への愛を向ける域へ到達する旅を始めることができない。
私も死を感じる体験をしたことがある。
やはり旅先でのことであった。
見知らぬ海沿いの土地で宿が見つからず、遠い海に太陽が消えていった。
真っ黒な海を眺め道を行くとき、頭の中で再生された一節。
深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
(ニーチェ)
「死」の存在を認識した瞬間だった。
次の町にある宿を目指し治安の善し悪しも知らぬ外套のない夜の山道を行くしかなくなったとき、私は走り出した。
死から逃げるために、全力で走った。
旅は不確実性に満ちていて、旅を終えるためには最後まで生ききることが不可欠だ。
家に帰るまでが遠足、とはよく言ったものだ。
割愛するが、奇跡的に宿にたどり着いたときに出された食事と、次の日の朝に見た太陽を忘れることは出来ない。
あのとき、2段階目である安全欲求をはじめて自ら満たしたのだろう。
はじめて「死」を意識し、翻って「生」を認識した。
この時から私の「いのち」が目覚め、他者へ愛を向ける旅路の一歩目が始まった。
「いのち」は何のためにあるのか。
私の答えは私の旅の先にしかない。
「愛」というワードがコンパスになり進んでいけるのだと予感している。