現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

動かなかった1ヶ月で分かったこと

Buongirorno.

 

Nothing ventured, nothing gained.

(William Shakespeare)

 

実践の中に答えがある。

動かないでいれば何も起きない。

 

果たしてこの意味を理解できたのは、何もしないと決めた1ヶ月があったからだ。

「これからのために、今は何もしない」という期間を取ることは重要だと今なら言える。

ブログを書き続けた1ヶ月。

就職活動や遊びに全力で、それでもブログは書き続けた。

やっていたことはしっかりと止めた。

自らの外側への一歩を踏み出さなかった。

comfort zoneからは出なかった。

むしろ自らの無意識 unconciousness へ旅に出たのだ。

 

 

「立ち止まるって言ってたくせに、もうまた動き出してるな」

という友人は周りにいないだろうか。

「全然言ってたこととやってることが違う!」

そう思ったことはなかっただろうか。

他人にそう思わせてしまうことにこそ、

立ち止まることの本質がある。

 

そこに立ち止まると、周りの景色は変わらなくなる。

景色に目が行かなくなったとき、見えなかった己の中の変化に目を向けられるようになる。

これまで経験してきた変化(歩いてきた道)と、今の自分自身の状態、そしてこの瞬間にも変わり続けている常に一歩先の未来にいる自分が見えてくる。

過去、今、一歩先の未来の自分の整理は、立ち止まる時間にこそ行えるのだ。

 

やるなら徹底的に我慢して、動かない。

 

「やっぱり何かしたいな」

そう思ってもまだまだ。

「何か違和感がある。足踏みでもしていないとおかしくなりそうだ」

もうちょっと。

「もう、動かずにはいられない」

機は熟した。

立ち止まりの終わりは主観的にやってくるのだ。

他人に流されることなく、自らの意志で腰を上げ歩き始める。

精神世界の活動に他者の客観的な「もう」や「まだ」が入り込む余地はないのだ。

 

動かない日々の終わりは強烈な形でやってきた。

「オレの今の人生はなんて面白くないんだ」

この気づきには他者の存在が必要だったが、客観的な評価が終わりを告げたのではない。

「動かずにはいられない」という感情はこみ上げるように心の奥から溢れ出てきた。

感情が溢れて、涙する寸前だった。

悔しさと、これまでの自分を赦すような気持ち。

それ以来「優等生の自分」という1つの人格を捉えられるようになった。

動かなかった1ヶ月は、今の景色の見え方を変えてくれた。

 

どうか立ち止まることを怖がらないで。

あなただけの世界で起きることを、その時がくるまで、坐るように待つ。

終わりが来て、立ち上がり、また立ち止まるも人生。

それでいい。

自らに挑み続ける限り、機が熟すときがやってくる。

 

Buona giornata.