Buongiorno.
歴史を知ることの重要性を、言われてすぐに理解できなかった反省を込めて。
「サピエンス全史」(ユヴァル・ノア・ハラリ)から、人間の歴史と人類が積み重ねてきた偉業、繰り返される物事、歴史の上に乗っているにも関わらず積み重ねる誤認に意識が向くようになった。
食品開発に栄養をかけ合わせることなんて、先人が時間をかけて何度も繰り返してきた。
知っているような知識を半端な状態で足し合わせた結果できあがったものに、世の中をより良い場所にする力はあるのだろうか。
自らに問わなければならない。
なぜそのようなものができてしまったか?
他ならぬ自分自身の不勉強が原因だ。
今の時代、新しい物事をはじめることは難しくなくなった。
先人の積み上げてきた基盤が、人間の思考停止と「とりあえず動く」ことの支援の方向に、使われている。
HOW TOを伝える本や動画が溢れている。
「実践の中で学んでいこう」「やってみよう」
すぐ動き出すことを求められる。
なぜか。
お金だ。
立ち止まっている限りお金は生まれない。
立ち止まることが難しくなっている。
誰でも何かをしやすい世の中になった。
みんなが何かをしているから、つられて動き出してしまう。
動き続ける限り足元に刻まれた歴史は見えてこない。
人間の重ねてきた偉業と過ちの流れの中にいる自分という存在。
そんなことを考えなくても生きて、死んでいける。
そうしてまた人間の歴史のページが追加される。
人生は長い。
孔子の言葉を借りる。
我十有五にして学に志す
三十にして立つ
四十にして迷わず
五十にして天命を知る
六十にして耳順う
七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず
対比として千と千尋の神隠しのエンディング曲「いつも何度でも」(覚和歌子)の一節を。
繰り返すあやまちの
そのたび人は
ただ青い空の
青さを知る
人間が人間らしく生きる限り、間違えるたび何度も空を見上げ、ただ青い空の青さを知りまた同じ道を歩き出すことしかできないというならば。
私は今ここに立ち止まり青い空の深淵さをこの目に刻み、来たるべき時を迎える準備をしよう。
所詮人間の歴史の中で、自分の80年そこらの人生で何ができるというのか。
何もできないだろう。
ならば、何かできたら儲けものという姿勢で最大限自らを活かしきることが、我が人生の行くべき道なのではないだろうか。
古典を学ぶことについての解釈は明日に。
Buonagiornata.