Buongiorno.
サウナで「やりすぎたな」と思った結果、眼球が上方移動して止まらなくなりました。
迷走神経反射なのかカロリックテストのようなことなのか、医学知識の不在で理解できておりません。
昨日は歴史の話をしたので、古典を学ぶことについての解釈を保存してみる。
現代人は歴史が見えないと言い切ってみたわけだが、例に違わず私も現代人なわけだ。
歴史を見ようという心を持つのは、先人たちという今は存在しない人類への畏怖や好奇心が始まりになると考える。
これまでうまくいった先人が築いた基盤の上で、ただ享楽に浸かって踊り狂うのか、新たな基盤を築く一助になろうとするのか。
後者を目指すならばそこに自らの言葉による哲学・思想が必要であり、その依りどころとして先人もまた学び現代へ紡いできた古典が必要となるだろう。
キリスト教の幼稚園に通い、賛美歌を歌って成長した。
時々口ずさむ歌もあるくらいに暗誦できてしまうことに宗教の力を感じざるを得ない。
歌詞を理解できない頃には音楽の荘厳さに勇気づけられていたが、今はこの口から溢れ出る歌詞の内容に支えられることもある。
宗教は偉大だ。
一方で以前このブログのどこかで書いたかもしれないが、宗教を乗り越えたときにホモ・サピエンスが次の世界に進めるという直感を、カトリック教会の総本山、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂の中で得た。
宗教の中には奇蹟が起こる。
人はこの奇蹟という外的なものに集まり、救いを求めている節があるという意見にはまったく同意する。
人間の次のステージに必要とされるのは、誤解を恐れずこのワードを使うが「自らの中に神をもつ」ことだと考える。
何者にもどんなシステムにも依らずに立つ「自立した個」の到来。
ニーチェの「超人」、ブッダの「悟り」に可能性を感じずにはいられない。
人間だけが神を持つ。
今を越える力、可能性という内なる神を。
奇蹟に依らない自立した個の達成のエッセンスが、古典に隠れている。
どの古典思想にも先人の思想が隠れている。
古典の古典、さらに古典へと巡り、深めていく中で自らの言葉が生まれる。
自らの言葉で語る準備ができたとき、理想へと歩み始めることができるのだろう。
論語という依りどころに出会った。
人生のステージが変化する音を聞く。
Buona giornata.