現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

余裕を持つこと

Buonasera.

 

新しい仕事、土地、社会的立場。

新しいものが大好きな僕は、毎日が新鮮な今の状況に幸せを感じる。

慣れを感じる場所や時間もできて、それらを依りどころに心の安定を保ちながらトライしていける準備も、着々と進んでいる。

そんな今「もっと余裕がほしいよね」なんてアドバイスをいただいた瞬間にインスピレーションが生まれたので、「余裕を持つ」ということについて書いてみることにした。

 

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そりゃ無理だ

まず結論から。

そりゃ無理な話だ。

アドバイスになっていない。

はじめての土地、はじめての職場で、はじめて医師として人の命や健康を扱う。

いきなり余裕を持てる人は、どれだけいるだろうか。

しかも「余裕を持て」と言われて余裕を持つことは、果たして可能だろうか。

余裕とは、他者に求めてもよいものだろうか。

余裕を持つまでにはいろんな要素があるだろうけど、「慣れる」という視点から3つに分解してみた。

1つめ「仕事に慣れる」

これが最も分かりやすいし、一般化しやすいと思う。
初めての仕事になれていくこと。
日々新しいことが目の前に現れる。
それだけで大きなストレスになる。
そこに「うまくいった」「うまくいかなかった」の自分もしくは他人(こちらについては後述する)の評価軸が入る。
今回はうまくいった、あそこはもう少しうまくできた、今日はだめだった…。
自分からも他人からも上がってくる振り返りだけで疲れてしまう。
この評価機構はより良くなっていくために必要だけれど、その分エネルギーを必要とする。

仕事は1人でやるものではないので、「他者に慣れる」という要素も含まれる。

まず仕事と他人に慣れるまで、余裕はないはず。

2つめ「場所に慣れる」

初めての土地、初めての職場で、自らの居場所を見つけるには時間がかかる。

ここにいても大丈夫。
ここにいると、どうやら邪魔らしい。

ここにいれば落ち着く。
この時は、これくらいの存在感を出すべき。

その場面、その場所で自分がフィットできる場所と適切な居る方法を場所ごとに見つける。

これができるようになれば、その居場所を拠り所に、自分の居場所を拡大していける。
こういう場所がない限りは、常に戦場に放り出された状態。

居場所がなくて気を張ってしまうのは無理もないし、居場所を見つけようとしてまた気を張ってしまう。

1つめと同様、場所も人間の意志がつくりだすものだから、ここにはすでにその場所にいる「他者に慣れる」という要素も含まれる。
居場所を探るのに精一杯な間は、余裕なんてない。

 

3つめ「人に慣れる」

この「人」という要素には、3つの視点が必要だと考えます。

 

①私が他人に慣れる

前述したとおり、1つめと2つめの両方に関わっているのが他人という要素。

仕事も場所も、人間の意志がつくりだすものだから。

こちらが相手を捉えて、おそらくこのコミュニケーションを取ることがお互いにとってよいだろうと、落とし所を探っていく。

少しずつその変数が「これくらいの幅で揺れ動く」ということが分かってくる。

この振れ幅を知ることが、他人に慣れること。

他人に慣れ始めることで、仕事にも場所にも慣れていく。

 

②他人が私に慣れる

こちらからあちらを見つめたということは、あちらもこちらを見つめている(ニーチェ?)。

すでに仕事にも場所にも慣れていた人も、新しい私という「他人」の出現によって起きる仕事と場所の変化を感じている。

すでに慣れていたはずなのに、相手にとって場所と仕事が慣れていないものになる。

これが解消されるためには、他人が私に慣れる必要がある。

こればかりは他人のペースがあるから、コントロールできないというのが重要。

 

③私が私に慣れる

大好きな詩から引用をひとつ。

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、
自分のこと以外なら。

「軽口のバラード」(フランソワ・ヴィヨン)

 

 

私が私を理解することが1番難しい。

私が相手をコントロールできないことと同様、相手も私をコントロールできず、その相手が見つめる私は、私ですらコントロールできない。

いろいろ書いてきたけれど、結局は私自身が仕事や場所、他人との関係性の中に置かれた「今の私に慣れる」ことが、最後にたどり着く場所なのだろう。

「この場所では、私が私に慣れていない」という視点を持つためには、自らを客観視するメタ的な視点が必要となる。

これには個人の素養やこれまでの経験も必要になる。

私が私に慣れること。

これが1番難しいから人は自分を見失わないために、変化を嫌い、自らの行動を制限したり、他者を排したりするのだろう。

 

余裕を持つことは、口に出して求めることではない

もし誰かに余裕を持ってほしいと願うならば、言葉で求めてはならない。

その人が余裕を持てるようになるまで、大なり小なり支えていくことだ。

相手に余裕を求めてしまったとき、自らに決定的に欠けているものがあると自覚しなければ、何も始まらない。

余裕というのは個人が1人でつくりだすものではない、という視点が欠けてしまっている。

新陳代謝の中で「慣れ」をつくり出すことのできない個人および組織に、その先はない。
結局すべて自分に返ってくるメッセージになったので、余裕を求められた僕の経験は、貴重で代えがたいものだったといえる。
これを書き終えた今、余裕を求められたことに感謝している。

 

私が私に慣れるところまで。

他者が仕事や場所、私という他人、そしてその人自身に慣れるところまで。

焦らず揺れながら、いきましょう。

 

Buona serata.