Buongiorno.
千葉県鋸南町で過ごした89日間の覚え書き。
ここで得たものは何だったのか。
89日間を終えてから「つながり」というワードを頻繁に使うようになっている。
結局は人と人とのつながりから変化が起きて、人生が大きく進み、新しいことが生まれていく。
昔から「本や映画や芸術は作品を通した他者とのコミュニケーションだ、たくさんやろう」って布教してたから本能的にはつながりの価値は感じていたのだと思う。
鋸南エアルポルトを中心に起こっていたことの1つは、つながりの連続だった。
人とつながることは(都合の)良いことばかりではなくて、衝突や危機を起こすこともある。
これも含めてつながりの化学反応なのだろう。
鋸南で一緒に過ごした人たちがやっていたことって何か、考えてみた。
「自分のベクトルと相手のベクトルがどうなっているのか」を、相手を見て捉える。
捉えはするけれど、特に何もしない。
相手のベクトルに力を加えて方向を変えようとしたり、自分のベクトルの向きをいじったりしない。
こんなことだったと思う。そういう場になっていた。
人間それぞれのベクトルって近いようでけっこう遠いから、化学反応の進みはだいたい遅い。
片方が相手と向き合うことを諦めたり避けたりすれば、それ以上反応は進まない。
反応が鈍くなったり進まなくなることにイライラして、相手のベクトルを変えようとしたり、自分のベクトルを調整したりしてしまう。
その結果、不和が起きたり争いが起きたりする。
けっこう普通のことだと思う。
そういった「普通」をやらない人たちに囲まれて過ごした。
他人に迎合したり、とやかく言ったりしないという部分だけ抜き出して俗っぽく評価すれば、”自分を持ってる人”とか”自信がある人”とかになるんだろう。
”自分”とか”自信”とかに対する社会の認識ってちょっとずれている気がする。
自分以外の相手を見つめるから、自分が生まれてくるんだ。
”自分”は、自分だけで手に入るものではないと思う。
自分をひたすら見つめた結果、自分を持てたり、自信が手に入る、なんてことはない。
生まれたての頃はお母さんのおなかの中とか、見える聞こえる範囲の狭い自分だけの世界からスタートして、とにかく触ったり口に入れたり他人を呼び寄せたりして、外の世界に触れていく。
私以外の存在があって構成される世界にいることに少しずつ気づいていく。
私以外の存在から様々にポジティブだったりネガティブだったりいろんなギフト(贈り物)をされて「好きなもの」「好きじゃないもの」を知ることになる。
そうして私ができあがっていく。
今の私って、この繰り返しの結果で、ギフトの集合体みたいなものだと考えられる。
ポジティブもネガティブも含めて、ギフトはつながりによって得られるもの。
自分は、他者とのつながりの結果なんだ。
「自分探しの旅」って、言葉だけ捉えたら寺で1人で座禅を組んでいても成立しそうな気がする。
旅って精神世界の中でも行えるはずだから。
でもたいていの人は、本当に移動するほうの旅を選択する。
旅に出れば知らない人、知らない町、知らない建物や文化に触れることになる。
目で見るもの、手で触れるもの、口に入るもの、口から出る言葉、すべて他者がつくったもの。
旅って、「他者に積極的につながりにいく行為」とも言える。
これって「つながり」が本質であるって、人間なら本能的には分かってるってことじゃないだろうか。
これまで受けとってきたギフトの中から自分の「好き」「好きでない」を知って、ある閾値を越えたときに自分が浮かび上がってくる。
このタイミングで、目の前に浮かび上がった自分を見つめてあげることになる。
やっと精神世界の旅に出る。
これまでどんなギフトを受けとってきたのかをたまに整理してあげると、この作業はやりやすくなると思う。
他者ってユニークで計り知れなくて輝いているから、自分もユニークで計り知れなくて輝いていていいんだって思える。
そういう場を見つけて、身を置くことが大切。
世の中のみんなとつながることができないことは理解できる。
人には人生の中でつくりあげた戒律があって、それをどうしても越えられない。
だから僕たちは、本質的にみんなとつながることができない。
それでも、つながろうとする。
いつか人が、言語を自在に操る様に、「自分の戒律」を自由に越える力を身につける。
その日がくれば、つながることは可能になると思うから。
変化を起こせる「つながり」の力を生み出せる場を、僕もつくりたいと思っている。
「あの人は輝いているから」って、勝手に心の依りどころにさせていただいている人がたくさん周りにいる僕は、他人に依拠することで自信を持っているし、自分を持っている。
湧いてくるものじゃない、受けとってきたものだ。
千葉県鋸南町で見出した「自分」は、つながりの集合だったって話。
Buona giornata.