現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

食べてもらうこと、食べさせてもらうこと

Buongiorno.

 

食事をつくり提供する側になってから、母親や祖母のことを考える機会が増えた。

実家にいて部活動や習い事を一生懸命やってヘトヘトになり、ソファで寝転がっていたら「できたから、早く食べなさい」と声をかけられ、食べる。

試験前に祖父母の家に転がり込み、朝から晩までひたすら勉強していると「そろそろご飯ですよ」と声をかけられ、食べる。

その食事を食べるまでに僕が投下した時間や力はゼロ。

食べさせてもらう状態。

あの頃、「食べさせてもらっている」という意識は1ミリも抱いたことがなかった。

 

「食べてもらうこと、食べさせてもらうこと」に意識が向いたのは、コロナウイルスによって留学先のイタリアから戻されたことがきっかけだった。

学校は休学していて、大学に戻ってパンデミック下で1人暮らしをしても仕方がないから、実家で過ごすことになった。

突然戻ってきた僕に、しばらく離れていた実家で落ち着ける“居場所”はなかった。

物理的には自分の部屋が残っていてそこに居られるんだけど、それは滞在しているという意味でしかなく、両親と弟の3人による家族生活の中に、僕の居場所がなかった頃。

僕にとっての居場所になったのが、キッチンだった。

 

「家族のために平日の夕飯をつくる」

僕は役割を手に入れて、居場所を確保することに成功した。

そして突如「食べてもらう」立場になった。

 

少し前置きが長くなったから戻ろう。

食べさせてもらう側から「食べてもらう」側になった僕には、食べてもらう側の苦悩が見えるようになった。

連日、自らの時間を使って料理をつくることの大変さ。

出したものが適切なタイミングで食べられない時のもどかしさ。

食べてもらう側の「つくる」行為がいつの間にか日常になって、風景と化すこと。

誰にも感謝されることなくつくり続けることに疑問を持つことだってあった。

これはまさに母親や祖母が感じてきたことだったのだろう。

 

でも、食べてもらう側はつらいことで溢れているわけではない。

むしろ、食べてもらう側になることは、人間の最大の喜びの一つを知ることだと思う。

 

僕らは共に食べることによって生活を支え合い、お互いに無事を確認しあって生きてきた。

人と人の間、人が囲む輪の中心にあったのは同じコミュニティ内の誰かが、時間をかけて用意した食事だった。

誰かの時間が込められた食事は、用意した人、つまり食べてもらう人と、食べさせてもらう人の間をつなぐ。

食べさせてもらう人と食べさせてもらう人の間をもつなぐ。

「同じ窯の飯を食う」は、まさにこのことを指している言葉だ。

そしてこの人繋ぎの偉大な仕事をやってのけるのが、食べてもらう人なのだ。

「食べてもらう人」(用意した人)の存在が「同じ窯の飯を食う」を成立させている。

「同じ釜の飯を食う」というワードの中に、用意した人への感謝が込められていると信じたくなる。

 

人間の中に生まれる連帯感。

その連帯を支えたのは食事の場の食事そのものと、食べてもらう・食べさせてもらう関係だったのではないか。

現代的人間生活の潤滑剤は、日々のガソリンに置き代われただろうか。

何がエネルギーになるかを忘れて、一生懸命に潤滑剤を口にする僕たちが見える…。

 

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友人宅に招かれて時間を過ごす。

食べてもらう、食べさせてもらう関係の中に、食べさせてもらう側として参加する。

僕は食事を通して彼らの一部に触れる。

食事を介して、彼らの一部になる。

彼らは僕を自らの一部にする。

 

風呂に入り、食事を囲み、布団で眠る。

これだけのことが、あまりに難しい世の中で、食事の場の価値を再構築する。

食べてもらうこと、食べさせてもらうことの覚え書。

人生とキッチンの先輩に敬意を表して。

 

Buona giornata.