Buongiorno.
全身全霊の読書の中に克己の機会があることを知る。
追い込むような運動やハードワークだけが己を乗り越える機会だと勘違いをしていたようだ。
※今回の内容は生物に関する描写に遠慮をしなかったので、読んで気分が悪くなる方もいらっしゃるかもしれません。
幼稚園〜小学生の無邪気な心≒狂気だと理解いただける方にお読みいただきたいです。
幼いときの狂気じみた関心というのが、誰しもの胸の中に残っているのではないだろうか。
小学校低学年頃の台所の記憶に立ち返ってみる。
私以外誰も居ない、夕方の台所。
料理をするわけでもなく、ただ包丁を手に取る。
右手に包丁と、左手には、手。
なんでもない私の左手。
指が動く。
たしかに動いている。
なぜ動いているのだろうか。
どこかで目にした描写なのだろう、生命から切り離された身体の一部は少しの時間動いているらしい。
虫だったか、トカゲの尻尾だったか、映画での人間の姿だったかはっきりはしない。
一度離れた身体の一部は戻ってこないのだろうか。
切断した指が牛乳につけておいて元に戻るようなことを聞いたこともあった(いま調べると、もちろんまったくのでたらめだった)(切断指は乾燥と湿気を防いで冷却しつつ病院に駆け込んでください)。
今この指を切り落としたら、そのあと元身体の一部だった指はどうなるのだろうか。
私の念じたとおりに動いてくれるだろうか。
独りでに動き出すのだろうか。
まったく動かなくなってしまうのだろうか。
私の身体に帰ってくるのだろうか。
そんなことを思って何度か台所に立ち、包丁を持ったことがある。
左手に包丁を当てることはできなかった。
そのあとに待っている未来が怖かったのだろう。
直感でしかなかったが、アラートは感じられたらしい。
他の生物で試すようなことはしなかった。
それでその生物に呪われるような気もしたし、可哀想な気もした。
やるのなら自分の身体でと思ったのだろう。
生命や身体性への興味といえばもうひとつ。
そろばん教室からの帰り。
目の前でバッタが車に轢かれた。
その体内からハリガネムシが出てきて、側溝のほうへゆっくりとうねりながら動いていった。
まわりのみんなは気持ち悪そうにまなざしを向け、悲鳴をあげていた。
私はというと、ハリガネムシに最も近い距離で観察をしていた。
どう動いてどこへ向かっていくのかが気になった。
飽きるまで観ていた。
文章にすると狂気じみている生物や身体への興味はどこから来たのか。
現状の答えとして「生きている実感のなさ」という言葉がしっくりきている。
不自由なく暮らしてきたために、生きているという状態に確信が持てなかったのだろうか。
生への実感に対する欲求が、他の生物の生命や自らの身体に及んだ結果なのだろうか。
スポーツを通して身体に意識が向くようになって、この身体性への関心はマイルドな方向へ昇華された要素もあったように思う。
頭だけで生きていると身体のことが分からなくなっていく。
時折身体を使ってあげることが必要なのだろう。
動いて、お腹が空いて、ご飯を食べる。
生命の神秘なんて、人間の空想でしかないんだ。
今日も同じ太陽が上がって、沈んでいく。
Buona giornata.