現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

思考を放棄しない人間 -「自立した個」を育むために-

Buongiorno.

昨晩の対話の中に刺激と気づきとが散りばめられていた。

時間を気にせず4時間近く話し続けられた、

あの場のエネルギーは相当に高いものだったろう。

同じ文脈を共有することでその場に対する人間のコミットメントが生まれ場のエネルギーを高めることを再認識した。

せっかく同じ時間を過ごすなら場のエネルギーを高め合える相手と過ごしていたいものだ。

 

人間社会の中で、何もかもが「発達」という課題に立ち返っていくのではないかと考えている。

発達は子ども時代限定のものと考えられがちだが、その本質は「人間が生まれて(受精して)から死ぬまでの変化」であり、一生涯続くものだ。

私の言葉でいえば「発達」は「教育」の目的であって、教科やジャンルを細分化できる教育は全て手段であって、発達というゴールを見据え続ける必要があると考える。

人間は何を理想に「発達」を目的にし、躍起になって「教育」を掲げるのか。

人生における判断材料の獲得が「教育」であり、

材料を組み合わせて自らを形成していくプロセスとその結果全体が人間の「発達」であると言うことができるだろう。

どうやら「教育」と「発達」の間にはわずかな隙間があるらしい。

これについてはまた別の機会で論じてみる。

 

理想の社会、つまり私個人のビジョンにおいては「自立した個」の存在が重要になってくる。

それはひと言で「思考を放棄しない人間」という言葉として結実した。

思考すなわち「自由」と置き換えられるかもしれない。

私もあなたも、自らの思考に限っては何事からも自由になれるはずだ。

 

発達の先に「思考を放棄しない人間」が生まれていくには。

その答えはまだ持ち合わせていない。

その反対とも言える「思考を放棄する人間」が簡単に生まれることは分かる。

 

生きているとあまりに選択の瞬間が多くて辟易する。

私たちは常に選択を迫られる。

食べるのか、食べないのか。

寝るのか、寝ないのか。

出かけるのか、出かけないのか。

人間誰しも、最初は1人で判断ができない。

決めるために自らの身体や心の状態、社会的評価など判断の材料を必要とする。

 

選ぶことに疲れ、次第により楽な選択をするようになる。

自らの状態よりも外部の評価に頼ったセミオートの選択が繰り返されるようになる。

「みんなこうしているから」

「誰にも指をさされないから」

「1番無難」

こういった選択はあまりエネルギーを必要としない。

大きな流れの一員になり、ゆっくりと流されていける。

そこで私の心身の状態はほとんど加味されていない。

大きな流れに揺られて流されていくこと、すなわち自由を放棄することだ。

思考を放棄することだ。

人間社会に生きていれば簡単に思考を放棄することができる。

唯一思考という自由を持つ人間は、いとも簡単に思考を手放していく。

 

今はまだ答えを持ち合わせていないが、

読書や映画鑑賞、芸術鑑賞という他者の深い思考に触れる機会は多ければ多いほど人の発達を支えてくれるのではないかという仮説は持っている。

児童の教育において1番始めにやるべきことは読書ができるようにすることだという友人もいた。

大人が意図的に用意した教育の場以外で勝手に学び始めることこそが、自由の獲得であり思考の獲得につながり、「自立した個」の誕生へとつながっていくのではないだろうか。

自立した個はニーチェの述べる「超人」に近いとも感じている。

まだまだ思考がまとまらないが、まずはここに問題提起的に記してみた。

 

Buona giornata.