現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

「発達」を軸に、社会的健康の観点で健康の認識を拡張する

Buonasera.

人の「発達」とは、生まれてから死ぬまでの心身の変化である。

時間軸を設定した時に「過去」「今」「未来」で起きる物事の総和が個人の発達であり、一生涯続く、いのちの宿命だ。

「発達」即ち「人生」と言っても過言ではないだろう。

 

タイトルの「社会的健康」の説明の前に、1947年にWHOが定めた健康の定義について引用しておく。

 

Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。

(日本WHO協会訳)

「肉体的」「精神的」「社会的」な健康について言葉を当てたことに大きな価値がある。

「健康」の認識が肉体的健康に偏重している世の中に対しての提言だったのだろう(残念ながら現代においても状況は変わっていないようである)。

身体的健康は症状や障害があるかないか、その瞬間の状態で判断しやすい。

見れば分かる、聞けば分かる、その即興性、インスタント感こそが魅力であることは間違いない。

一方で精神的健康は、本人すら気づくことが難しい領域である。

「なんだか調子が悪い気がする」「たまに朝起きるのがつらい」などはハッキリとした症状や障害となる閾値を越えづらく、評価の対象となってこなかった。

社会的健康はより一層分かりづらい。

他者とのつながりや社会における自己効力感など、個人の症状や障害を表層だとした場合、その下にある閾値を越えない精神的な不調の、さらにもっと深いところでベースとなるものであって、個人に尋ねたところで正確に把握することはもはや不可能に近いものなのだ。

 

医療者として身体的健康以上に、精神的、社会的健康に関心を寄せている。

健康を扱うことを使命とする医療者は、これまで後者2つの健康をあまりに軽視してきた。

西洋科学では扱い方が分からないから、そのままにしてきてしまったと言うのが適切だろうか。

その反動か、むしろ身体的健康のみのプロフェッショナルとして特化していってしまった。

社会に豊かさがもたらされたことで発生した様々な健康の課題に、医療者はハッキリとした答えを出すことができずにいる(ハッキリとした答えなど出せるはずがないのだが、今の社会がそれを許さないことも分かる)。

これからは精神的健康と社会的健康を扱えるプロフェッショナルが必要とされる世の中になる。

 

その流れに則り、ここでは人間の「発達」を軸に、豊かになった現代の人間存在のベースとなっている社会的健康を扱っていきたい。

冒頭で人間の発達は一生涯続くものだと述べた。

その瞬間瞬間、全てが重要なのは疑いようがない。

その中でもお母さんのお腹の中にいた頃〜小学校卒業までの発達は特に重要だと考える。

この期間に必要な発達のきっかけを得ることで、人生のベースとなる確固たる社会的健康を自ら獲得できる人間になっていける。

例えば安心して活動できる範囲を広げる力。

これは養育者の声かけやふるまいに大きく左右される。

専門語でいえば養育者は子どもの依りどころ「安全基地」にあたる。

生まれたばかりで簡単に不安を抱えてしまう子どもは、不安を養育者のスキンシップや声かけによって発散したり受け止めたりできるようになる。

「ここまでは大丈夫」「これくらいだとつらくなる」そういった一つ一つ感覚的な経験を安全地帯である養育者の居る場所を拠点に重ねながら、活動範囲を広げ、少しずつ養育者の居ない場所でも一人で動けるようになっていく。

自立性を獲得していくことができるのだ。

ところが不安を解消する依りどころがなかったとすればどうだろうか。

抱えた不安は解消されない。

「ここまでは大丈夫」と思える範囲が見極められない。

いつまでたっても安心して活動できる範囲を広げられず、自分自身の中だけで不安を抱えて増大させてしまい、より一層動けなくなっていく。

決まった場所から動かなければ他者との接点は減り、コミュニケーション能力が発達するチャンスも少なくなる。

また、安全基地が機能しないことは別の問題も発生させる。

もはや自分の安心できる居場所すら分からなくなり、生きること即ち不安という状態に陥っていく。

 

同じように歳を重ねたとしても、周囲の社会的な環境次第で発達に大きな差が生まれてしまう。

発達障害が増えている」とデータでも示される現代。

もちろん調査の精度が上がっている可能性もや、高齢出産が増えたことによる生物学的な影響の可能性も考えられる。

しかし、育つ環境に目を向け、人間の発達について議論することをこれまで避けてきたのではなかろうか。

子どもの発達を個人の力及ばぬ社会の流れや生物的な原因に押し付けて、個々人がつくり出している現実に目を向けることを避けてはいないだろうか。

人間の発達を軸に設定することで、この現代的な発達障害の問題に向き合う切り口を提示できると考える。

これを入り口に、予防可能であるはずなのに増え続ける身体的健康の障害である「生活習慣病」や、うつ病適応障害パニック障害といった精神疾患などに解決策を見いだしていけるとすら期待している。

これらの問題の根底には、母親のお腹にいのちが宿った瞬間から記述が始まる、社会的健康の物語が横たわっていると信じている。

 

わずか30年ほど先に産まれ、社会がつくりだした恩恵を受けながら、「環境問題」だの「地球の未来」だの社会が提示する大きなもので視界が覆われ、すぐ目の前の次世代のための環境を整えることすらまともにできてこなかった。

それが次世代の「発達障害」として表象しているのではないだろうか。

 

決して親やある個人の問題ではないことは確認しておきたい。

人間が長らく40人程度のコミュニティで子を育て生き残ってきた歴史を考えれば、この数十年で大多数を占めるようになった「核家族」という状態が人間の発達にフィットしていないのかもしれない。

日本社会とか世界情勢の話以前に、スモールな目の前の社会、「小さな社会」に目を向け変更を加えるための議論が活発になることが必要だろう。

これも個人だけでどうこうできることでないことも分かる。

たとえば「小さな社会」の中において、健康のプロフェッショナルたる(だったはずの)医療者側からの問題提起によって、病院やクリニックといった場所の利用と合わせて社会の中に投げかけを行っていくこと1つの切り口になると、医療者目線で提案をして締めくくりたい。

私は、医療者は今、自らの在り方に勇気を持って変更を加え、「小さな社会」において人間の健康の問題を取り扱う存在となる戸口に立たされているとさえ考える。

医療者の中に次世代としての在り方「イアトロス*・サピエンス」が表れる予感がするのである。

(*イアトロス:ギリシャ語で「医者」。ここでは「医者」を医療を施す者、即ち現代における「医療者」として使った)

 

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 Buona serta.