現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

俗俗(ゾクゾク)したい

Buongiorno.

 

久々にキッチンに立つ。

フライパン握って、肉と玉ねぎに火を通す。

別の作業も並行するから、ほったらかしにされるフライパンと肉と玉ねぎ。

時間と音と匂いでタイミングを計る。

少しずつ肉と玉ねぎが気になってくる。

意識がフライパンにもって行かれて、手元がおぼつかなくなってくる。

いよいよその時が近づいてくると手元はいっそう言うことを聞かなくなる。

慌ててコンロに戻る。

 

「2秒後が最高だ、」

 

感性が訴えかける。

誰もその前後を比べることはできない。本当に2秒後が最高かは分からない。

関係ない。

 

「2秒後が最高だ、上げろ」

 

瞬時に火を止めて皿を手にとり、「最高」を注ぎ入れる。

誰ひとり取りこぼすことなく、丁寧に、急いで。

決まった。この瞬間が、僕の、この料理の、頂点だ。

 

 

 

高尚なことを考えてみせる。

世の中のためになることとか、人を救うこととか、誰かの幸せとか。

応用編みたいなところにある「幸せ」について考えてみせる。かっこいいから。

 

そのくせ自分のことがよくわからない。

自分が本当に「幸せ」な状態にいるのか、それに向かえる精神状態なのか、これまで培ってきた足枷に邪魔されて、思考が歪んでいないか。

応用編じゃない、純粋な、一次的な幸せはどこにある。

 

うまいものをつくった、満足できる棚ができた、かっこいい演奏ができた…。

なんでもいい。

美しいものをつくる」その瞬間に魅せられている。

他の誰かなんてその瞬間、頭の中にない。

「キマった!」と思えるその瞬間に向かって、孤独に、ヒリヒリしたLIVE感を積み重ね、アドレナリンを放出しまくる。

そして遂にゴールテープを切った瞬間の、沸き上がるドーパミン

脳の中を快感が駆け巡る。

 

その瞬間やその成果を、誰かと共有できたなら、もっと幸せだ。

これは二次的なもの。ドーパミンのあと乗せ。追いドーパミン

脳のシステムの中にここまで用意されているんだと思う。

一次的な瞬間がないと二次的なものは成り立たないけれど、ここまでくればきっと絶頂できる。

 

二次的な幸せのタイミングが、共有といういかにも人間らしいところにある。

ここに「俗」を感じる。

(※俗=なみ、普通、平凡。人間の社会性を抜き去ったところには生物的な俗だらけだと考える。漢字は「人が谷のように限られた型にいること」を意味する)

 

見てほしい、聞いてほしい、触れてほしい…。

誰かとの関わりの中でしか得られない「幸せ」に向かって人間は歩いている。

脳がそういうふうにできている。

高尚なことは後回しだ。

まず自分が満たされろ。

そのために「俗」にまみれろ。俗は人間のシンプルなものの積み重ね。社会に放り出されて誰かの俗と俗がかけ算されて、世のならわしが生まれる。俗×俗で「俗俗(ゾクゾク)」。社会のならわしは上澄みすら混濁しているけれど、そこに人間の本質が隠れている。

俗俗することをしたい。

LIVE感から生物的な幸せ、そして共有による二次的(人間的)な幸せ。

俗にまみれて、はじめて手に入る。

 

社会性で自らの欲求を隠して「私は応援側です」って世間に定型文を述べて、自らのLIVE感に蓋をして、せいぜい一次的欲求までで強制終了する。

LIVE感を人に共有しようとすると挑戦のタイミングが含まれてくるから、つい避けるクセがついてしまうのも分かる。

ただ、1回やり方が分かればできるようになってしまうものでもある。

チャンスがあるかどうか、そしてチャンスから逃げないでいるかどうか。

 

ゾクゾクすること知ってるのって「遊び方を知ってる」と同義だと思う。

ゾクゾクしてる瞬間が多そうな人って、よく遊んでると思う。

一次的、二次的な幸せについて十分知っちゃっているから、自分はある程度満たせていて、たまに高尚なことも考えられるんだろう。

これはまた別の話になるので、ここまで。

 

Buona giornata.