Buonasera.
岐阜県岐南町にて「医療法人かがやき 総合在宅医療クリニック」における3日間の見学。
3日目の朝。
ロッジの部屋で、朝日が当たる壁の木の香りとともに目を覚ます。
朝から少し作業をしていたら、理事長の市橋先生が呼ぶ声が聞こえた。
「お看取りの連絡が入ったから行こうか」
在宅の現場は何度か経験していたけれど、お看取りの場面は初めて。
先日祖父が旅立ったばかりで、この機会に何も感じないわけがない。
早く目が覚めていてよかった。
車の中でこれまでの簡単な経緯を聞いてお宅へ。
すでに亡くなられており、早朝からご家族が集まっていらした。
医師の役目である死亡確認へと進んでいく。
人の死は、
・脈がないこと
・呼吸が止まっていること
・光に対する瞳孔の収縮がないこと
の3つで決められている。
現代的な儀式として、確認をし、亡くなった時間と事実を告げる。
その時の周囲の反応は、見送られる方お一人お一人に応じて実に多様だ。
思い出を振り返ることも、医療者や介護者への感謝を述べることも、これからのことを話し始めることもある。
故人との関わりを振り返り、思い出し、1つ1つ言葉にしていく。
言葉が、故人の全存在を分解し、残された者の気持ちに混ぜ込まれて、人生の栄養となっていく。
医療者が死の瞬間を宣告することも、このような残された側の故人の死を分解する営みも、残された者へのケア、「グリーフケア」の重要な要素なのだ。
グリーフケアは故人の死を皮切りに始まるわけではない。
亡くなる以前から、いのちの終わりと、終わりのその先に向き合う心に寄り添うこと全てを指すのだろう。
在宅医療のゴールの1つである「自宅における死」。
自宅において死は、病院に閉じ込められず、情報処理をされず、周囲に時間的な遅れのない形で、生活の一場面として共有される。
いのちの終わりが生活の中で自然に達成される。
病院における死や突然の死とは異なり、生活した場所における死は、周囲の残される者に生命が成就する姿をその死をもって語りかけているように思う。
人類の歴史は、死から得られる「深い悲しみ」に他者と協力して向き合い、次へ次へ形を変えて渡し続けてきたグリーフケアの歴史なのかもしれない。
その後、市橋先生とモーニングを食べながら医療法人の取り組みや次の目標について伺った。
医療法人ができることは診療だけでなく、グリーフケアや場所づくり、後進育成と本当に多様だ。
新しい物事が始まることに関わるとワクワクする。
僕は新しいことをし続けるし、誰かが始める新しいことに関わり続けていたいと思う。
この日は看護師さんと一緒に行動し、訪問看護の現場を見学させていただいた。
1人暮らしの高齢者のお宅では、社会が保証する医療のケアによって、認知機能が落ちてきたあとも、独居であっても自分の家で過ごすことが可能であると知った。
身体機能や認知機能が落ちる前のようにとはいなくとも、支援があればその人が自分らしく生きていた空間で生きることはできる。
患者さんの顔や言葉からはもはや何も読み取ることはできなかったが、その人生は在宅で過ごすことによって輝き続けていたのかもしれない。
在宅医療の現場で3日間を過ごした。
在宅医療は「効率」というワードに対しては脆い。
なんでも一カ所に集めて行えば、簡便で効率的で社会的価値が高い。
生きた場所で死ぬまでをケアが必要な状態で1人で過ごすのは効率的ではない。
そんな旧時代的な「効率」という言葉が切り落としてきた、感情や生きがいといった質的なものが在宅医療の現場ではよくみえた。
人間のいのちってなんだろうか。
僕らは自分と誰かのいのち(=死)をモノとして扱ってきた。
今もそうしている。
使えばすり減り、休めば元に戻り、メンテナンスで長持ちするいのち。
消費し、治すものとしてのいのち。
現在のいのちの扱われ方は、発信元である医療や保険がずっと積み重ねてきた営みの結果だ。
もう効率の時代が終わるなら、仕事や消費や地球環境のこと以前に、いのちについての考え方を更新することこそ必要ではないだろうか。
医療がある程度の範囲の地域で複数個のモデルをつくり、エッセンスを抽出して、いのちの扱い方について社会に提言していくことだってできるのだろう。
在宅医療は医療社会学や死生学といったものとの相性も良さそうだ。
まだまだ取り組みがいのある分野だと感じる。
この3日間の経験は在宅医療を学ぶだけでなく、医療者として、料理人として、1人の人間として「いのち」を捉えなおすきっかけになった。
3日間受け入れてくださった医療法人かがやきのみなさまに感謝を込めて、このシリーズを終えたいと思います。
Buona notte.