Buongiorno.
今年はMAKERS UNIVERSITYといういわゆる「起業家の育成塾」にお世話になっている。
※いわゆる、であって「起業」という言葉についても大いに補足したいがここでは割愛する。
この私塾、もちろん倍率がしっかりと高いのだが、なんと学生側は支援者の方々の寄付や心意気に支えられて1年間無料で通うことができる。
これまでやってきた事業を伸ばしていきたいと考え足を踏み入れたのだが、なんだかんだ自分を見つめ直すことになっている不思議な1年間だ。
11月頭はある塾内のゼミの合宿@福井県に誘ってもらい、地域に入って仕事をつくり続けているゼミメンバーとメンターとに揉まれてきた。
昔から捨てられずにいるローカルの視点。
その地域にしかないセッティングを育てながら伸ばし、新しいものをつくる。
芽を出すのには時間がかかるところへ、1人ではなく、誰かと、時にジャズセッションのように即興性をもって関わり、まだ存在しなかった種を撒いていく。
医師になろうとする僕は、なぜこれほど地域に惹かれるのだろうか。
高校時代に出会った「国家救援医 私は破綻国家の医師になった」(角川書店)の國井修先生には影響を受けた。
「国家救援医」というワードに心ときめき、購入したことを覚えている。
主体的に購入した医療関係の本はあれが初めてだったと記憶している。
医師は国を救うことができると、その仕事のイメージを大きく変えてくれた書籍だった。
元々広い範囲のものを考えるのが好きだったのかもしれない。
さらに地域に関心を持ったのは、浪人時代に出会った「信州に上医あり-若月俊一と佐久病院」(南木佳士)に描かれる若月俊一氏の姿勢に憧れてのことだろう。
「上医は国を診る」
かつての中国における医師の分類の中で、下医は病気を、中医は患者を、そして上医は国や地域を相手に治療や癒しを施すとされた。
まさしく「国家救援医」とは上医だったのだと高校時代の記憶がつながった衝撃を覚えている。
若月先生やその周囲の医療者は、我慢したり病識がないなど隠された理由を背景に病院を訪れない農民のもとへ、農村へと自ら乗り込んでいった。
その姿勢に、医療者はかくあるべきと思わされた。
病院という狭い世界の中で困りごとを解決するだけでは、国や地域は健康にならない。
そこには医療者側の努力が必要となる。
「医者になるのに違うこともやっているんだね」とお声がけいただくことは多い。
それは医師という仕事が病院という枠に囲われ閉ざされている実存とそれに市民も医療者も少しずつあぐらをかいた結果できあがった一般認識とがつくり出した現在の「当たり前」でしかない。
本質は「上医」のあり方の中にこそあるはずだ。
「医療の解放」は人生の大きなテーマだ。
医療者が病院から解放されて、医療の枠の外で力を発揮していく時代が来る。
病院が必要とされなくなる時は、医療者が必要でなくなる時ではない。
医療者が新しい働き方を見つけ出す時だ。
だから「現代の食医」とうたって、その在り方を1つつくっていくのが僕の番として回ってきたバトンなんだと受け止めている。
「地域に出るのに必要なのは肝臓だ」というが、半分以上冗談でないところは地域で活躍する人たちを見て、自ら動いてみて、強く実感する。
その肝臓を守るように働きかけられるのは、医療者であればこそと思う。
一見病院という容れ物に分断されがちな、地域と医療者。
実はその間を肝臓がつないでいる、なんていかがだろうか。
医療者側が地域に出て活躍する未来は、自ずとやってくる。
この流れに一緒に飛び込む勇気はあるか。
Buona giornata.
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