現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

【0/3日目】「幸せになるため」医師の先輩からいただいたもの

Buongiorno.

岐阜県にて在宅医療を展開されている医療法人かがやきさんの「総合在宅医療クリニック」と「かがやきキャンプ」を見学させていただいた3日間のシリーズ。

 


 


kamoshite-kuwa.hateblo.jp

 

今回はそのプロローグ。

かがやきのHPはこちらから

医療法人かがやき|岐阜県岐南町の総合在宅医療クリニック

 

 

参加している創業支援プログラムのゼミメンターにいただいたご縁。

医師として生きつつ事業をつくることについてうだうだ言い続ける僕に対して、愛に溢れた叱咤激励としてのご紹介だと捉えている。

 

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3日間の見学を前日入りの0日目から振り返る。

贅沢にも代表の市橋亮一先生と2人でお話しさせていただいた夜。

市橋先生の学生時代の経験や大切にされているクリニックづくりの理念、医療の捉え方、人生観など聞かせていただいた。

ひとことでいえば、先生の言葉には確かな力があった。

概念を言葉で形成することが訓練されていて、48年間の厚みから生まれた言葉には説得力というか、人を頷かせる力があった。

様々なお話しの中でも僕の人生のスイッチを入れるきっかけとなった話題を0日目の成果として振り返り、3日間の前日談としたい。

 

・人生にはタイムリミットがある

パートナーや子どもができれば、生活を守っていくために最低限必要となるお金のラインが決まってくる。

これを満たしながら自由に生きることは簡単なことでは無い。

子どもができれば動きづらくなる部分は事実としてある。

イムリミットがあることを意識して20代を過ごす必要がある。

僕は今、医師国家試験に受かり来年から最低2年間の医師としての修行期間に入る道中にいる。

クリアすべき試験は確かに目の前にあって、しくじれば1年間、医師としての人生を進めることはできなくなる。

イムリミットに対して1年間をみすみす譲渡するのは当然本意でない。

一方で、タイムリミットを乗り越えるもしくは潜り抜ける、あるいはリミットを先送りにし続けるような、一般論と違う僕だけの人生というものを見つけてみたいとも思う。

未だ残していけるものを持ち合わせていない僕自身への無力感が募った。

人生にタイムリミットは確かにあるらしい。

これまで逃げずにリミットを直視する勇気がなかったことを突きつけられた。

医学生という肩書きに甘えているに過ぎないんだ。

 

アメリカとインド

市橋先生が学生時代に通ったアメリカと、印象に残ったインド。

僕がコロナで腸内細菌研究に行きそびれたアメリカと、僕が個人的に気になっているアーティスト横尾忠則が、僕が個人的に気になっている作家三島由紀夫に「行ってこい」と言われたインド。

インドというのは三島いわく呼ばれる時がくるものらしい。

人生のパラダイムシフトを起こす出会いに飢えている。

そんな僕はアメリカとインドに惹かれているらしい。

特にインドだ。

最近インドに意識が向きがちだから、こうしてまた書いてしまう。

インドに呼ばれているのだろうか。

そもそも今回のクリニック訪問のように「他力本願」なところは今に始まったことでないから、もはや諦めるしかないか。

実力がないことすら今の僕の個性だと思いたい。

「悔しい」がこぼれ落ちた。

 

・地域づくりをしているわけではない

総合在宅医療クリニックを岐南町で12年間。

ずっと地域で医療の文脈から生活者と関わり続けてきた先生は、「地域づくりをしているわけではない」という。

先生がつくっているのはチームであり、環境だ。

在宅医療を提供するチームのメンバーが、その人らしく力を存分に発揮できる環境をつくること。

これによって結果的にチームが強力に機能する。

強力なチームは質の高い医療を提供できる。

高い水準の在宅医療は、地域で人が生き、死ぬことを強力に支える。

人が最後までいのちを全うできる地域は、人的資本が豊富で、関係人口が多い場所だ。

その地域が元気になることは言うまでもない。

その地域に開かれたクリニックという環境は、人的資本をさらに大きくする装置として機能している。

 

チームメンバー1人1人がかがやくことで、トータルとして高い水準の在宅医療が提供される。

驚くべき離職率の低さが、理念が実現されていること、強力なチームが達成されてなお伸び続けていることを物語っている。
このチームづくりのマインドは、市橋先生の学生時代のラグビー経験やサークル活動の経験にあるのだろう。

時間がもたらす厚みがクリニック運営と環境とに反映されていることをひしひしと感じ、また「悔しい」がこぼれおちた。

 

・幸せになるためにやっている

医療とは何なのかという問いは常に医療者にまとわりつく。

僕は医療とは人の認識の総意で「今はこれを医療と呼びましょう」とみんなで定めた相対的なものだと考えている。

市橋先生も同様らしい。

医療という枠組みはもはや通り越した先で考えられているようだった。

「働くために生きているわけではなく、幸せになるために生きている」

これを医療法人という形で、在宅医療という形で表現されている。

この話をした建物がこの世界観から生まれたものであることに絶対的な説得力と、また「悔しい」という思いがこぼれ落ちた。

 

。。。

 

ずいぶんフラフラと実力なく生きてきたと思うこの頃。

医師の先輩がつくり続けている「概念の実現」を突きつけられ、大きく心が揺さぶられた。

足りないものだらけだ。

先生のこれまでを知り、

・徹底的にやること

・「勝ち」にこだわること

これらから逃げてきたのだと、自覚せざるを得なかった0日目。

「悔しい」という想いは3日目までこぼれ続けることになる。

その序章となる一夜であった。

 

奥様のつくった美味しいスイートポテトと、それを温めてくれたイタリア製薪ストーブの温もりにも、「悔しい」がこぼれ落ちて、面倒な自分という生き物に直視する時間が再び始まったことを歓迎した0日目。

1日目の訪問診療へと続く。

Buona giornata.

 

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