現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

性別の話、その前に。

Buongiorno.

叩かれやすい話題と無視されやすい話題。

社会的に決定される「叩くべき」「叩かざるべき」の判断。

とにもかくにも性別絡みの話をしづらいこの世の中。

なぜだ。

この世の中は性別が存在して成立しているんじゃないのか。

算数や、理科や、国語なんかよりも明らかなことじゃないか。

 

私が起こした「あんなことをしなければ」という反省を踏まえて、内側にフツフツと湧き起こりながら、社会という名の鉄槌を振りかざすあなたの眼を気にして言葉にできなかった、性別の話をしよう。

 

ずっと心に引っかかっている言葉がある。

「おまえのそういう女性蔑視が嫌いなんだよ」

その時は怒り散らされたので何も言い返せなかったし、私のどこかにそういう視点があるからこそ、その指摘がなされたのであろう。

「違う」と言い切れなかった私が、まだあそこに膝を抱えて座っている。

 

女性蔑視とはなんだ。

「蔑視」

見下げること、さげすむこと、ばかにすること。

これを男性が女性に向ければ「女性蔑視」。

女性が男性に向ければ「男性蔑視」。

性別を気にしているじゃないか。

 

蔑視せずに生きられたらと思う。

上とか下とか、それで人は苦しんでいるのだから、どうか上とか下とかを作り出さない人間になりたいと願ってはみる。

「聖人君子になりたい」と本気で願うこともあった。

 

おそらく答えは、無理だ。

社会が求める「完璧・完全」になるには、私の意識全てを社会に投げ売って、社会の眼に全身全霊気を払い、どこから見られても社会的な隙のない在り方を目指す必要がある。

それが人間的でないんだ。

 

人間は不完全だ、いびつだ。

思っていることは出てしまう。

あとで気がつく、「あんなことをしなければ」。

「あんなことをした」ことを社会の眼は取り上げて、彼・彼女を社会の枠の底へ引きづり陥れる。

社会の眼はその眼を借りている個人の素質を棚上げして、一瞥する。

いや、一蔑だ。

さげすむ眼を向ける。

蔑視する人間を蔑視する。

その社会の眼は、蔑視するあなたを棚上げする。

 

今日も「あんなことをしなければ」と反省する一方で、その反省が社会の眼に対してのものであるという前提を疑うことに背を向けられない。

鉤括弧付きの「モラル」という名の社会の罠だらけの話題。

避け続けるから、人は苦しみ続けるのではないだろうか。

 

「モラル」を取り払った空間で話すようにしよう。

「モラル」をモラルによって排除する空間づくりをしていこう。

その扉は小さく、腰をかがめて頭を低くしなければくぐれない。

謙虚さだ。

人間存在に謙虚なままで、人間として話せるようになりたい。

 

まだまだ未熟な私を見つけた。

いつまでそこで座っているつもりだ。

 

Buona giornata.