現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

地面に縛り付けられた自分自身のイメージ

Buonasera.

ストレスの無い日々には終わりが訪れる。

突然降りかかった身体の疲れと精神的負荷によって均衡が崩れた。

どこかストレスを求めていた節もある。

心地よい。

そろそろ立ち上がれということだろうか。

そのまま泥にまみれ続けておけという声も聞こえる。

 

とにかく激しく感情が揺さぶられたのでこの機会を逃すまいと、座ってみた。

心に浮かぶイメージ。

無数の糸で地面に縛りつけられた自分自身。

その真ん中に、無数の糸で縛りつけられたさらに小さな自分自身。

今の私を縛る原因が、小さな私にあるということか。

地面が意味するのは私を生み育んだ大地。

父、母、家族だ。

 

ふり返ると、親に対して大きく反発してこなかった。

何を話しても親や家族が出発点のように語る。

気づいて受け入れたのではなかった。

その愛に依存しているのだ。

どちら側も認めない形で依存が成立していた。

 

親に与えられたもので生きてきた。

本当に自分で手に入れたモノなど身の回りにあっただろうか。

親や家族の関心から要素を抽出して組み合わせた。

目の前にあるものを組み合わせることは難しいことではなかった。

これまでやってきたことに嘘偽りはないし、そのために組み立てた論構造を信じてきた。

それが正解なのだと、すがりつくように、信じ込むように、話し続けた。

 

「自由になりたい」

そう言葉にすることが多くなってきた。

どうして自由になりたいのか、と問われて言葉に詰まった。

少し時間を取って考えてみた。

 

「ワクワクする不確実さの中で、自分がつくったもので遊んでいたい」

という答えが出てきた。

小学校低学年みたいな答えだ。

 

「自分がつくったもの」で「遊んでいたい」。

 

誰かに与えられたものではなく、自分がつくったものを使いたい。

それを使って、自由に自分のルールで遊んでいたい。

与えられ続けてきたことへの反発と、これまでと真逆の世界の実現がエネルギー源になっていたとも考えられるようだ。

愛をもって大切に育てられることが必ずしも隙の無い解を与えるわけではないのかもしれない。

 

それでは、人が苦しまずに生きられる理由を家族に求めることの正当性も、いよいよ揺らいでくる。

この先には持っている地図や道筋はない。

つくった地図とルールで遊ぶんだ。

Buona notte.