現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

認識の底に横たわるもの

Buonasera.

焚き火、BBQ、コーヒー。

故きを温め新しきを知る。

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この私の認識の根底に、何が横たわっているだろう。

いま見えている水平線は世の中の全てではないし、その水平線は完全なところでは誰とも共有しきれない。

ある当たり前がある。

正常、時に健康とも言い換えられるだろう。

当たり前は、己自身が当たり前を外れてはじめて、認識可能な空間に浮かび上がる。

 

大学を4年間(および6年間)で卒業すると言う当たり前。

日本での暮らしという当たり前。

休学し留学をすることで、2つの当たり前が認識できるようになった。

私の場合で言えば、正常を離れたことで、医療者がもっと多様であり得るという異常(⇔正常)、海外で暮らすことができるという異常を認識できるようになった。

 

これを声高らかに主張したところで、見ている水平線が違う限り、その言葉はあなたの耳には届かない。

こちらから水平線を揃えるか。

他者が私の水平線を見ることができるよう働きかけるか。

擦り合わせるように、ともに新しい水平線の元で出会おうとするのか。

 

離れたからこそ得られた新しい認識を、個人が自らの懐で抱きしめるから、人の革新はいつも遠くにあり続ける。

見えた、見てしまった水平線のその眺めに執着してしまうから、己の足も止まり周囲の歩みには何の影響も与えることがない。

ただ私が新しい拠り所を得たにすぎないのだ。

古い枕を捨てて、新しい枕に抱きついたところで、夜な夜な寂しさを紛らわせているという事実には何の変化も与えない。

 

「何もかもが違う」

これを認めることは、一生孤独になることであり、拠り所のない人生への偉大な一歩である。

休学や留学で得た新しい水平線は、すでに乗り越えていくべき古さをはらんだ懐古主義の温床でしかなくなった。

今日見えている水平線を、明日は乗り越えていく。

今見えている水平線が、数時間後には新しいものになる。

孤独でよりどころのない人生は、スリルと好奇心に満ちている。

 

もう囚われることのないと信じた私の認識は、囚われの上にこそ成り立っていた、焚き火の思い出。

Buona serata.