現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

そもそも「食医」のこと

Buonasera.

「コミュニティナース」(矢田明子 木楽舎)から、医療者が病院の外で活躍できる事例を学び、地域に根ざして仕掛け人として立ち回ることにイメージがついた。

医療者の在り方を自由にしたいという欲も、いつからか自覚している。

「現代の食医」というワードを用いて自分の道を歩むのは、自己実現はもちろん「こんな在り方でも生きていける」という一例を示したいからだ。

乗っかりたい人には乗っかっていただきたいし、ぼくも自分らしくある医療者という流れに乗っからせていただいてるに過ぎない。

諸先輩方の系譜を継いで、紡いでいきたい。

 

そもそも「食医」というワードは当然、僕がつくったわけではない。

かつて中国にいた、皇帝の健康を食事から管理する医師のことだ。

紀元前256年頃まで約800年間続いた周の時代に、「周礼(しゅうらい)」という書の中でその名が登場する。

今でいう外科医、内科医のさらに上、最上位の医師として認識されていた。

「未病(まだ病気になっていない状態)を治す」という考え方が根底にあるのだろう。

現代に残っていないのは、西洋医学の文脈が世界を覆ったタイミングで、未病という「目で見て認識できないもの」を扱いきれなくなったからなのだろうか。

薬膳や漢方など、それに近いアプローチが残っているのは幸いだが、どうしてもエビデンスの名の下に「未病を治す」ことの評価が軽んじられ、眉唾ものとして扱われがちなのは否めない。

人の革新は見えないものを信じられることにこそあるというのに。

 

昨今の食事×健康ブームは人々のより健康であろうという意識を鼓舞するもの、というよりも「病気になったら大変だから」という人々の「不安」にターゲティングしたものだと感じる。

ブームはブームでしかないので、このタイミングで「健康」を扱う人間が言葉遊びをやめて真に人の健康を考えなければ、次のブームにあっという間に押し流されていってしまうだろう。

ここで、自分らしくあろうとする医療者がゆるくつながりを持ってブームと闘うスクラムを組む必要性を感じる。

何も食事だけの問題じゃなく、スポーツも、言語も、妊娠出産子育ても、簡単にブームに押し流されてしまう。

押し流されてもみくちゃにされて、言葉がペラペラのボロボロになってしまうのは残念でならない。

今を生きる健康のプロフェッショナルたちがUniteすることが、人間の今後に向けて必要だろう。

人の苦しみを知っている医療者だからこそ、その独特の人間への優しさを発揮できると信じている。

医学生の分際で、もうそろそろ訪れるその時のためにここに書き記す。

 

思考し、書いて、貯めて、動き出す。

このわずか1100字の積み重ねで新しい水平線が見えてくることを信じて。

Buonaserata.