自らの言葉で語る
Buonasera.
北海道7年目にして富良野のラベンダー畑を経験しました。
花は季節を伝えてくれる。
旬の食べ物を語ることに合わせて、時期の花も学んでいけると、世界の理解が深まっていきそう。
分かってはいるけどできないことがある。
指摘されても変えられないことがある。
変えたいけれど変われない。
まだその時期じゃないんだ。
変わらずにはいられない時が来る。
まずは事実から目を背けないこと。
語る言葉が湧いてこない。
湧き出るはずの水源が枯れている。
水を貯める努力をしていない。
穴を掘りはじめていない。
穴を掘る場所すら定まっていない。
そもそも私が穴を掘る理由が語られていない。
語るための言葉が足りていない。
その言葉を紡ぐための土壌が準備できていない。
その事実から逃げないこと。
自らの中に、自らの言葉として課題が設定できた瞬間、次への進化は始まっている。
13年前から自覚し始めた生きづらさの正体は、たしかに「不平等・不条理」に向けられていると知った。
兄貴がバカにされた時も、自分が抗えなかった日も、友だちが下に見られたときも、見えない貧困への関心も、スリランカで得た憤りも。
そして食事の場にこだわるのは、誰もが平等で幸せにいられる可能性を秘めているから。
病気を治すことや栄養満点の食事を続けることは、多世代が幸せな食卓を囲む社会の十分条件ではない。
周囲からは栄養で語られることを求められる。
簡単だから、分かった気になれるから、すぐできるから。
理解できる。
でも僕には関係ない。
食事の場のもつ奥深さを伝えるのは簡単な仕事じゃない。
だからこそやるべきなんだ。
私は未熟である。
もっと熟すことができる。
蝶には程遠い。
だから蛹になることができる。
「私は大丈夫。あなたは大丈夫。」
今の私が高校生に語りかけた言葉は、かつての私に向けた言葉であり、これからの私への言葉でもあった。
大丈夫。
僕はホンモノになれる。