Buongiorno.
人との出会いによって人は変われると信じている。
オンライン・オフラインの人との関わりに限ったことではない。
映画、音楽、陶芸、絵画、現代美術など、人の思想を媒介する作品を通しても、人は人に出会うことができる。
読書はそのうち最も私にとって頻度が多い、他者との出会いの場であり続けてきた。
ちなみに読みやすい小説をほとんど読まない私が書く文章であることはご承知いただきたい。
本が作者との1対1の対話の場を展開する。
「読書をするときは自分自身が消えてしまうようなのめり込み方をするべきだ」という文を目にしたことがあるが、時間を忘れて読み続けてしまうある種のトランス状態の到来を否定することはできない。
瞑想と問答と歓喜とが一冊という両手に収まる世界に詰まっている、その可能性。
一瞥では到底理解できず、何度も何度も同じ文を読み返し理解しようとする作者としのぎを削るような読書。
友人の言葉を借りれば、本との「格闘」。
闘いの先に広がる新しい地平線を求めて旅に出る。
本質的な旅好きは、Uncomfortableな場所へ飛び出す喜びを知っている。
彼らは物理的な旅も、読書や映画鑑賞といった他人の思想世界への旅も好むのではないだろうか。
この「本を読むこと」について、新しい気づきがあった。
旅において私1人では行ける範囲、見られる景色に限界があることは旅好きのあなたにわざわざ述べるまでもないだろう。
読書もまた、同様なのだ。
1人で読むだけで、作者との対話が完成することはあり得なかった。
「読めた」と感じているのは読んだあなただけで、読めた”つもりになっている”に過ぎない。
読書の技が熟達したところで、おそらくただ1人で作者のもつ世界に真に迫ることは不可能であろう。
そこに、ともに闘う読者が現れるとどうだろう。
やはり作者の世界に真に迫り、触れることは到底敵わないかもしれない。
しかし、ともに歩むことで、1人では見落とした道ばたの花や、藪の先の新しい道を見つけられる可能性は格段に高まる。
同じ対象と闘う他者の存在によって、1人ではたどり着けない場所へ到達することができる。
「読書会」と呼ばれるものに強烈な魅力を感じた、昨夜の旅だった。
どんな本を読むのかは言うまでもなく重要だ。
いま私が読むべき本を見極める。
旅の準備=このサナギの期間なのだろう。
Buonaserata.