Buongiorno.
食卓を1人で囲むことはできない。
食卓を問う時、テーブルの向こうに「あなた」が現れる。
私とあなたの関係性が、食卓を囲むチャンスになる。
①「はじめまして」の食卓
私とあなたは偶然、食卓を同じくする。
たくさんの人たちがいる中で、たまたま出会い、お互いの人生がつながって、食事を媒介してコミュニケーションを開始する。
偶然の出会いを1つの要素としていつでも包含しているのが食卓の魅力だろう。
②「ご飯に行きませんか」の食卓
すでに出会ったことがある私とあなたが同意の下、席に着く。
私からあなたへ、あなたから私へ、関係性を深めたいというオファーが出され、互いが受けとり、コミュニケーションをもう一歩深化していく共同作業。
食卓というフィールドにはたくさんの未開拓の場所が残っており、2人の拠点を一つずつつくるようにして「2人の食卓」の完成に向けて共同作業を行う。
食卓を囲む前後で私とあなたの関係性に大なり小なりの変化が起きる。
③習慣としての食卓
私とあなたの生活圏と行動範囲の重なりが増え、食卓を囲む機会が習慣化されていく。
互いが囲むフィールド上にはすでに多くの拠点が存在する。
私だけが依りどころとする拠点、あなただけが依りどころとする拠点も生まれる。
私はあなたの拠点には入ることができない。
同じ食卓の上にいながら2人は違う場所にいるような感覚を得る。
もちろん強固な2人の拠点を築くこともできる。
ただ、この築き方が分からない人が多くなっている気がしてならない。
食事の場のつくり方を知らない。
本来上から下へ、伝えられてきた人間の営みの根っこの部分のつくり方が分からなくなってきている。
他人との関係がうまくいかない。
私の能力不足か、他人の理解力のせいか、タイミングが悪かったか。
そのどれでもなく、絶対的なコミュニケーション量の不足こそが原因だろうと、今の結論を記しておく。
同じ1時間半のうち、いま僕がこうして操作する機械に意識を割かれ、実際に食卓を囲んでいたのは30分未満というケースは想像に難くない。
絶対的なコミュニケーション量はツールの介在する場合は肌感で0.3倍の濃度になる。
この感覚を共有していくために言葉を深めるべく、立ち止まるのが今なんだ。