現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

上滑りしている言葉は

Buonasera.

お体裁を繕って、簡単な年度末と年度始めのお清めゲリラライブ、踊ります。

 

こうして書いていることすら言葉へのこだわりだと思う。

僕がやりたいことを外に見せるには、たくさんの言葉のチョイスが必要だ。

 

言葉には「きれいな」ものがある。

「こだわりの」とか「厳選した」はきれいな言葉だ。

多くの場合、読んで寒気がする。

 

僕は短いフレーズで自分を表現するのが、得意でないらしい。

コピーとかいわれるものだ。

思考が浅いままに決めちゃうとか、ワードを膨らませるだけ膨らましてから選ぶという背景の作業を、せっかちさ余ってすっ飛ばすのだろう。

やり方が上手じゃないんだな。

オードリーの若林とか有吉とか、上手なんだろうな。

反射レベルでやれるプロもいる。

コピーライターさんもすごい。

 

得意とか不得意とかたしかにあるけど、やらないと決めたり、人にやってもらおうと決めた瞬間に、自分のものですらなくなる。

他人が表現した自分や自分の一部は、果たして同質か?

否。

「これについてはそれでいいや」って思えるものはそのまま世の中に出ていっていただいてかまわない。

でも「これだけは譲れない」って部分に妥協や他人が入り込んでいるとしたら。

今に満足できていない限り、進めていいと僕の

心は絶対に言わない。

アラートが鳴っている。

 

そういう自分の声が聞こえなくなるまで追い込まれるところには人間は対応できていない。

別のアラート、生命の警報が鳴っている。

まずはこれを鎮めにいこう。

全て差し置いて最優先事項だ。

 

それから、原因を探ろう。

綻んだところから異物が入ってくる。

思考が自分のものではなくなっている。

勇敢に傷を受ければ、感染の可能性も高まる。

一つひとつ目で、心で感じて、入り込んだ異物を取り除く。

意図して入れたものと、差し込まれたもの。

見極めが肝心だ。

 

やっと言葉が自分のものに戻り始めた。

この数週間で入ってきたものは、玉石混交、純度もバラバラ、飽和していた。

それでも大切にしたくて残った言葉と思想がある。

・歴史を知り、いまを生きる

・10年、もっと先にも続いて花開くものをつくること

・顔色と歳の取り方

・キラキラ、内側から湧き出るもの

・金沢の風景

尾崎豊岡本太郎

・科学、東洋と西洋

・その人との食事は楽しいか?

・攻撃

・人を見て、感じる

 

ここに挙がらないものは、こだわらなくていい。

「醸」の一字も挙がりやしない。

もっと根っこにあるか、パフォーマンスにすぎなかったか。

上滑りしている言葉と人間は、全部いったん場外へ。

 

はい、きれいになった。

今日から、なんて器用には生まれ変われないけど、その下手っぴな感じだから、僕は僕であるんだろう。

「2018年から〜」はウソだ、パフォーマンスでしかない。

自分で設けた思考の枠でしかない。

全部はずして「いま」に向いたまなざしは、ただ一点をまっすぐ見つめる。

僕を通して、人間の真実を見つめる。