現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

働くこと26

Buongiorno.

誕生日会は、自分から開くのが丸いらしい。

招かれると祝われ慣れてなくて萎縮してしまうが、自宅など知っている場所で開けばそれだけで居心地がいいし、「祝われる」が主体的に望んだ行為になる。

来てくれた人が、一緒に楽しんでくれるのが素直に嬉しい。

1番自分らしくいられる方法に、周りが寛容に合わせてくれるのが誕生日のいいところ。

ちょっとだけわがままになっていい日なんだな。

寂しいときは、自分から先に手を打たなきゃ。

原文:The world's full of lonely people afraid to make the first move.

(映画「グリーンブック」)

 

働くこと。

ワーケーションという言葉が気になる。

仕事をしている場所と休暇を過ごす場所が一緒ということなら、面白い。

好んで固定の住まいを持たず、色々な場所を渡り歩きながら仕事をしている人がいれば、その人は毎日ワーケーションをしているのだろう。

 

では普段の都会生活を一時的に離れて自然に溢れる場所へ足を運び、そこで働くとすれば。

働いているのか、休んでいるのか。

仕事と仕事じゃない時の境界が曖昧になっていく。

パソコンの前は仕事場、だとすればパソコンが一緒にいる限りその空間はどこも仕事場ではないだろうか。

私は働くために生きているのだろうか。

ワーケーションという横文字の、たくさん働け、効率を上げろというメッセージに振り回されて、人がまた消費されていく。

以上の場合の「仕事」は、どうも主体性に欠けているようだ。

 

働くこと。

高校時代、京大に入っていった優秀な子が

「エンジニアになれば食いっぱぐれないだろ」

と言っていたのが印象的だった。

映像編集やデザイン制作、システム構築といった近代的な電子機器を必要とする仕事が世の中に求められていて、その仕事に人が吸い込まれていくようなイメージをもった。

エンジニアの次は、社会起業家だろうか。

流行は何も食べものや服装に限った話ではない。

人が吸い寄せられていく様子は時代を反映している。

今日も渦の中で人は流され、新しい志願者が勢いよく飛び込み、か弱き子羊が足を踏み外し飲み込まれる。

 

働くこと。

いろんな在り方に出会って、難しいカタカナや漢字が連続する職業の人たちは、なんだか楽しそうだったりする。

「現代の食医」

なんだそれ。

十分に楽しそうじゃないか。

 

「週2日働いて月収100万円」

という謎のフレーズが口から飛び出すようになったこの頃。

仕事はつくるものらしい。

Buona notte.

 

 

 

 

 

 

 

上昇志向と焦りは違う。現代を生きる私へ

Buonasera.

Piacere, 26年目の私。

人それぞれに人生のペースがある。

26歳でこうして生きているという事実を上下の比較無しに受け止めてあげられるように。

上昇志向と焦りは異なるものだ。

 

たしかにこの1ヶ月、内側の力を磨き続けてきた。

ブログを書いて思考を外に出すことで、一貫する考えをあぶり出したり思考のクセに近づいたりできた。

人に会うことは、何かを前に進めるためではなく、純粋に様々な価値観や人生に触れるために。

その一方で、誰かに問い詰められたり成果を求められる場面には立ってこなかった。

同じ瞬間に大勢に見られるようなアウトプットからは離れてきた。

 

「そして、これからどこに向かっていくの?」

 

寝耳に水というか、聞かれて気持ちの良くない感じがする。

動いたあと「未来を見据えよう」としないことは、人間らしくない、、、のか?

 

上昇志向と焦りは違う。

人生は前に進んでいる。

後悔のない時間をたしかに過ごしている。

1日の中でもっとできたことはあったはずだと日々ふり返りまた前を向く。

沸き上がってくるような覚悟はまだまだ不足していて(否、自分の中に見つけられていないだけだ。目を背けている)毎日辟易とするし、何か外に向かってやっているかと言われたらそうではない。

 

まあこうして外に向けて書き続けているわけであって、何もやっていないわけではない。

私自身の「やっている」の解釈が歪んでしまっていることもここで分かる。

ほら、また周りに焦らされている。

現代的じゃないか。

 

経験を通してしか、この人生を語ることはできない。

これまで、「何かしている自分」は経験してきた。

今、「自ら決めた場所に留まれる自分」を経験している。

留まることで見えてくるものがあって、それを文章に温めて送り出してきたのがこの1ヶ月だ。

 

立派にやり遂げているではないか。

どこまでも「ゆっくり」にしてみよう。

もっともっと「ゆっくり」に。

そして、もっと先の未来につながるような対話をしよう。

 

人生はきっと、

自分のしたいことの為にあるんだと思う。

だから、時間があると思う人やまだ何かできると思う人は、

今のうちにうんと沢山、

心の財産を増やしておくといいと思う。

そうすれば、

君が求めてるその夢に、きっとたどり着ける。

尾崎豊「誕生(約束の日Vol.2)」)

 

どうか、私の、あなたの、自分の声に耳を澄ませて。

Buona serata.

 

 

 

疲労、空腹、貧困

Buonasera.

疲労、空腹、貧困。

3拍子揃った困窮。

困窮と惨めさが視野を狭める。

空腹が追い打ちをかけるように思考を制限し、苛立ちや焦り、無力感の回路を回しはじめる。

困窮は口にするものを制限し、その選択肢の限定が灰色の毎日がこれから永遠に続くような感覚を植え付ける。

惨めな食事と惨めな感情を他人に見せたくない。

唯一残ったプライドくらい守らせてくれと、ちっぽけな自分が行動を縛る。

疲労、空腹、貧困。

ひとつだけで問題を起こしているのではない。

絡み合っているからこそ、どこか1点から解きほぐしてあげられるはずだ。

私は食と向き合う。

人と食の歴史(それは生物と食の歴史であり、それ以上でもある)を学び、食と幸福のつながりを世の中に見える形として提示していく。

 

惨めさを覚えた。

人の期待に応えられていないという自らへの惨めさ。

「もっとうまくできたはず」なのに現実はそうでない無力からの惨めさ。

あるはずのない他人の目への不安。

完璧主義の名残。

惨めさが下を向かせる。

視線をあげられない。

下を向いているとさらに気持ちは惨めになってくる。

お腹は空いたけれど、お金にならない仕事を目の前に、今この時間に価値が無いような気がしてきて気持ちが塞ぐ。

空腹を埋めることすら億劫にしていると、次第に苛立ちと焦燥感が登ってくる。

 

この気持ちを振り払う方法はもう知っている。

だからこそ、この感情を大切に書き留めておきたいと思った。

疲労、空腹、貧困。

サイクルが回り始めれば、簡単には抜け出せない。

必要とした人が一瞬でもしがみつけるような食事や、場所があったなら。

私は食と向き合う。

食も医療も、生物の根源である「いのち」を扱うこと。

医療の立場から食の眼鏡で「いのち」を見つめる。

食の立場から医療の眼鏡で「いのち」を見つめる。

これからその淡い、曖昧な場所に立っていたいから、今こうして書いている。

医療者がもつ優しさが、病院の中だけでなく、開かれた社会の中でも発揮されるように。

 

来たるべきときを「主体的に待つ」ことも、覚悟がいることらしい。

座ってないで、泥にまみれて待ってみよう。

泥まみれになってお腹が空いたら、満足するまでご飯を食べよう。

 

Buona serata.

 

認識の底に横たわるもの

Buonasera.

焚き火、BBQ、コーヒー。

故きを温め新しきを知る。

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この私の認識の根底に、何が横たわっているだろう。

いま見えている水平線は世の中の全てではないし、その水平線は完全なところでは誰とも共有しきれない。

ある当たり前がある。

正常、時に健康とも言い換えられるだろう。

当たり前は、己自身が当たり前を外れてはじめて、認識可能な空間に浮かび上がる。

 

大学を4年間(および6年間)で卒業すると言う当たり前。

日本での暮らしという当たり前。

休学し留学をすることで、2つの当たり前が認識できるようになった。

私の場合で言えば、正常を離れたことで、医療者がもっと多様であり得るという異常(⇔正常)、海外で暮らすことができるという異常を認識できるようになった。

 

これを声高らかに主張したところで、見ている水平線が違う限り、その言葉はあなたの耳には届かない。

こちらから水平線を揃えるか。

他者が私の水平線を見ることができるよう働きかけるか。

擦り合わせるように、ともに新しい水平線の元で出会おうとするのか。

 

離れたからこそ得られた新しい認識を、個人が自らの懐で抱きしめるから、人の革新はいつも遠くにあり続ける。

見えた、見てしまった水平線のその眺めに執着してしまうから、己の足も止まり周囲の歩みには何の影響も与えることがない。

ただ私が新しい拠り所を得たにすぎないのだ。

古い枕を捨てて、新しい枕に抱きついたところで、夜な夜な寂しさを紛らわせているという事実には何の変化も与えない。

 

「何もかもが違う」

これを認めることは、一生孤独になることであり、拠り所のない人生への偉大な一歩である。

休学や留学で得た新しい水平線は、すでに乗り越えていくべき古さをはらんだ懐古主義の温床でしかなくなった。

今日見えている水平線を、明日は乗り越えていく。

今見えている水平線が、数時間後には新しいものになる。

孤独でよりどころのない人生は、スリルと好奇心に満ちている。

 

もう囚われることのないと信じた私の認識は、囚われの上にこそ成り立っていた、焚き火の思い出。

Buona serata.

もう少し、いやまだまだ

Buongiorno.

学生だからこそできることってある。

部活して、自転車の後ろに彼女乗せて、ファミレスで笑ってるだけのあの頃「画に描いたような」高校生活。

今はどんな「画に描いたような」学生生活があるんだろう。

大人や周囲に振り回されて、ある一つのことから離れられない気がして動けなくなったり、トレンドに手を伸ばし続けることだってできる。

私はこの有り余る時間を次のジャンプに向けて使おうと思う。

 

理想は常に高かった。

完璧主義になったのは、ミスしたくないから。

ミスすると怒られるのはもちろん、納得できずモヤモヤが積み重なってつらかった。

ミスしない道を確かめて歩くのはすでにクセになっている。

よっぽど以前よりは挑戦することへのハードルは下がったし、飛び込んでからミスがなさそうな道を選んで成功を最大化させるという舵取りもクセになっている。

それでもまだまだ少ない手札を並べてカードを切っているだけで、実力不足は言うまでもない。

 

人がそのいのちを輝かせながら、よりよく生きられるように。

時に他者と一緒にいのちを輝かせることができるように。

そんな新しい世界を目指して歩み出すには、歩むべき道が見えるように言葉を貯めていく必要があると感じて立ち止まっている。

久しぶりに私の理想を語る機会を得た。

以前よりよっぽど言葉に力がこもるようになってきた。

一語の容量が増している感覚はある。

少ない言葉でも伝わるのは、私のフェーズがたしかに変化してきている証拠だろう。

それでも、まだまだ新しい発想や具体的な切り口に言葉が開かれていかない。

その作業に着手するのは時期尚早ということだろう。

もう少し、いやまだまだ。

焦りから並べた言葉には、納得のいく熱量が乗らない。

話している言葉を話しながら反芻することが多くなったのもちょうど最近のことだ。

自らの言葉に以前よりずっと敏感になっている。

私が私をチェックしている。

もう少し、いやまだまだ。

 

時間を馬鹿にしてはいけない。

発酵を焦れば、カットした分の年月が生む深みは得られない。

人間の力でどうすることもできない要素に謙虚になる。

それができないから、近代的って言われるんだろう。

トレンドでしかない。

Buona giornata.

性別の話、その前に。

Buongiorno.

叩かれやすい話題と無視されやすい話題。

社会的に決定される「叩くべき」「叩かざるべき」の判断。

とにもかくにも性別絡みの話をしづらいこの世の中。

なぜだ。

この世の中は性別が存在して成立しているんじゃないのか。

算数や、理科や、国語なんかよりも明らかなことじゃないか。

 

私が起こした「あんなことをしなければ」という反省を踏まえて、内側にフツフツと湧き起こりながら、社会という名の鉄槌を振りかざすあなたの眼を気にして言葉にできなかった、性別の話をしよう。

 

ずっと心に引っかかっている言葉がある。

「おまえのそういう女性蔑視が嫌いなんだよ」

その時は怒り散らされたので何も言い返せなかったし、私のどこかにそういう視点があるからこそ、その指摘がなされたのであろう。

「違う」と言い切れなかった私が、まだあそこに膝を抱えて座っている。

 

女性蔑視とはなんだ。

「蔑視」

見下げること、さげすむこと、ばかにすること。

これを男性が女性に向ければ「女性蔑視」。

女性が男性に向ければ「男性蔑視」。

性別を気にしているじゃないか。

 

蔑視せずに生きられたらと思う。

上とか下とか、それで人は苦しんでいるのだから、どうか上とか下とかを作り出さない人間になりたいと願ってはみる。

「聖人君子になりたい」と本気で願うこともあった。

 

おそらく答えは、無理だ。

社会が求める「完璧・完全」になるには、私の意識全てを社会に投げ売って、社会の眼に全身全霊気を払い、どこから見られても社会的な隙のない在り方を目指す必要がある。

それが人間的でないんだ。

 

人間は不完全だ、いびつだ。

思っていることは出てしまう。

あとで気がつく、「あんなことをしなければ」。

「あんなことをした」ことを社会の眼は取り上げて、彼・彼女を社会の枠の底へ引きづり陥れる。

社会の眼はその眼を借りている個人の素質を棚上げして、一瞥する。

いや、一蔑だ。

さげすむ眼を向ける。

蔑視する人間を蔑視する。

その社会の眼は、蔑視するあなたを棚上げする。

 

今日も「あんなことをしなければ」と反省する一方で、その反省が社会の眼に対してのものであるという前提を疑うことに背を向けられない。

鉤括弧付きの「モラル」という名の社会の罠だらけの話題。

避け続けるから、人は苦しみ続けるのではないだろうか。

 

「モラル」を取り払った空間で話すようにしよう。

「モラル」をモラルによって排除する空間づくりをしていこう。

その扉は小さく、腰をかがめて頭を低くしなければくぐれない。

謙虚さだ。

人間存在に謙虚なままで、人間として話せるようになりたい。

 

まだまだ未熟な私を見つけた。

いつまでそこで座っているつもりだ。

 

Buona giornata.

生きている実感

Buongiorno.

全身全霊の読書の中に克己の機会があることを知る。

追い込むような運動やハードワークだけが己を乗り越える機会だと勘違いをしていたようだ。

 

※今回の内容は生物に関する描写に遠慮をしなかったので、読んで気分が悪くなる方もいらっしゃるかもしれません。

幼稚園〜小学生の無邪気な心≒狂気だと理解いただける方にお読みいただきたいです。

 

幼いときの狂気じみた関心というのが、誰しもの胸の中に残っているのではないだろうか。

小学校低学年頃の台所の記憶に立ち返ってみる。

私以外誰も居ない、夕方の台所。

料理をするわけでもなく、ただ包丁を手に取る。

右手に包丁と、左手には、手。

なんでもない私の左手。

指が動く。

たしかに動いている。

なぜ動いているのだろうか。

 

どこかで目にした描写なのだろう、生命から切り離された身体の一部は少しの時間動いているらしい。

虫だったか、トカゲの尻尾だったか、映画での人間の姿だったかはっきりはしない。

一度離れた身体の一部は戻ってこないのだろうか。

切断した指が牛乳につけておいて元に戻るようなことを聞いたこともあった(いま調べると、もちろんまったくのでたらめだった)(切断指は乾燥と湿気を防いで冷却しつつ病院に駆け込んでください)。

 

今この指を切り落としたら、そのあと元身体の一部だった指はどうなるのだろうか。

私の念じたとおりに動いてくれるだろうか。

独りでに動き出すのだろうか。

まったく動かなくなってしまうのだろうか。

私の身体に帰ってくるのだろうか。

 

そんなことを思って何度か台所に立ち、包丁を持ったことがある。

左手に包丁を当てることはできなかった。

そのあとに待っている未来が怖かったのだろう。

直感でしかなかったが、アラートは感じられたらしい。

 

他の生物で試すようなことはしなかった。

それでその生物に呪われるような気もしたし、可哀想な気もした。

やるのなら自分の身体でと思ったのだろう。

 

生命や身体性への興味といえばもうひとつ。

そろばん教室からの帰り。

目の前でバッタが車に轢かれた。

その体内からハリガネムシが出てきて、側溝のほうへゆっくりとうねりながら動いていった。

まわりのみんなは気持ち悪そうにまなざしを向け、悲鳴をあげていた。

私はというと、ハリガネムシに最も近い距離で観察をしていた。

どう動いてどこへ向かっていくのかが気になった。

飽きるまで観ていた。

 

文章にすると狂気じみている生物や身体への興味はどこから来たのか。

現状の答えとして「生きている実感のなさ」という言葉がしっくりきている。

不自由なく暮らしてきたために、生きているという状態に確信が持てなかったのだろうか。

生への実感に対する欲求が、他の生物の生命や自らの身体に及んだ結果なのだろうか。

 

スポーツを通して身体に意識が向くようになって、この身体性への関心はマイルドな方向へ昇華された要素もあったように思う。

頭だけで生きていると身体のことが分からなくなっていく。

時折身体を使ってあげることが必要なのだろう。

動いて、お腹が空いて、ご飯を食べる。

生命の神秘なんて、人間の空想でしかないんだ。

今日も同じ太陽が上がって、沈んでいく。

Buona giornata.