病を病として受けとる私たちに求められること
生と死の話をしよう。
目の前の大切な誰かが病を患った。
あなたは心配をする。
彼/彼女のこれからの生を。訪れる死を。
本当にそうだろうか。
あなたが真に心配しているのは、あなた自身のことではないだろうか。
自分がそうなってしまったらどうしよう。だから、予防に興味をもつ。
これから見守る自分の生活が困窮したらどうしよう。だから、いくらかかることになるのかはっきりさせたい。
まだ「私から彼/彼女に対してやっていないこと」がたくさんあるのに死んでしまったらどうしよう。だから、彼/彼女の生を遠くに追いやろうとする。
その一生を通して、具体的には何もしないというのに。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
あなたが心配しているのは、つまり、あなたのことじゃないだろうか。
原因が老衰以外では納得ができない。
だから原因を探し、敵を見つけて恨み憎み、時に自己承認欲求を満たすために病を利用すらする。
あなたの人生は、そのあと少しでも豊かになったか?
「救えなかった、悔しい。」
エゴも自己理解の欠落もはなはだしい。
彼/彼女とともにあなたは生き切ったか?
人は生きて、死ぬんだろう?
そんなこと、出会ったときから分かっていただろう?
あなたの答えを出すことを先延ばしにしたのは、あなた自身だったろう?
病を病として受けとる私たちの心に、問題の本質が隠れていないだろうか。
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inspired by watching ”Meet Joe Black” and chatting with one of my best friend