現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

「今日まで生きてきてよかった」のために

Buonasera.

 

生きることは、関わること。

これまでずっと「苦しい」と思っていたことが、ふっと軽くなる瞬間がこの4ヶ月に詰まっていたように感じる。

きっとずっと憧れた”医師”という肩書きを手に入れたことが大きく作用しているのだろう。

 

「何をしたいんですか?」「何をしているんですか?」と問われたときに、

”what(=やっていること)"を答えることに自分自身、違和感を抱き続けていた

何かずれているし、遠回りになるし、”説明的”だと。

僕による僕自身の理解が足りていないことにもどかしさがあった。

このごろ、食事の場と健康っていう話とか、飲酒を通した食育のこととか、いわゆる”what"の部分じゃない答えをするようになってきた。

 

「人の『今日まで生きてきてよかった』のためにやっています」

 

僕自身への、そして僕と関わることになったあなたへの祈りみたいなもの。

死ぬ時を迎える誰もが、死ぬ瞬間に「今日まで生きてきてよかった」と思える世の中だとすれば。

本人は自分の死にすでに納得しているから、その瞬間を心安らかに迎えられる。

その周りの人は、いつ訪れるか分からない自分の死にすでに納得しているから、他者の死にも納得できる(もちろん時間はかかると思うが)。

そんな理想の社会で、人は”医療”を必要としなくなるとすら思う。

 

僕は「今日まで生きてきてよかった」の原体験が食事の場にあるからイメージできるもんで、食事の場でやろうっていうだけ。

同じ答えを持って音楽をする人もいるだろうし、器をつくる人もいるだろう。

積み重ねた「今日まで生きてきてよかった」が人生を楽しく感動的に、幸せにするだろうし、つらいときを乗り越える力になってくれる。

短い人生の「今日まで生きてよかった」の1つを、僕がつくる食事の場で感じてくれないかと、僕は食事の場を提案し続ける。

 

誤解を恐れず言えば、全ては僕自身のために。

それがきっと、いつか訪れる死を前提とした僕の生きる意味なのだと今は考えるから。

その信念が誰かのもとに届く瞬間を重ねることで、僕も「今日まで生きてきてよかった」を重ねられるから幸せになれる。

 

1ヶ月前。

ふと友人に「どうして(いろいろと)やってるの?」と聞かれたとき。

「僕が生きづらいからやってる」と、これまでと同じように即答した自分への違和感

ここのところあれこれと考えて1つ思い当たった。

冒頭に述べたように、医師という、あのときどうしても手に入れたいと思った肩書きが手に入った今。

もうあんまり生きづらくない自分に気がついた。

だからこれからは「僕が生きづらかったからやってる」ってことになるんだと思う。

ちゃんと抜けられる道があるんだと、今を生きる姿で伝えていけることがあると思う。

 

「時間」っていうのは実際、治療につながる大事な要素だと思う。

この仮説はこれからの人生で温めていこう。

 

Buona serata.