現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

「どうしてそんなに焦っているの?」

Buongiorno.

 

20代の終わりが視界に入っても、若いままでしかいられない自分への詩。

 

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どの人生にも焦りが生まれるから、「焦りは禁物」「急いてはことをし損じる」「急がば回れ」なんて言葉が編み出されてきたのだろう。

 

2021年、大学も最終学年とはいえ、あれこれと動き回っていた頃。

「焦っている」と形容されて、自分が焦っていることに実感が湧くようになった。

どうして焦っているのかは分からないままなので、ふとした時に「焦っている」と声をかけられ、自分でも「そう、確かに焦っている」と自覚はしていた。

それでも理由は皆目見当がつかなかった。

 

昨日久しぶりに「焦っている」と指摘された。

またどこで焦りの材料を拾ってきたのか。

心当たりはないまま「たしかに近頃、焦っているのかも」と納得感はあった。

それでも理由はさっぱり思い当たらない。

 

今日登壇の機会があり「人生において譲れないこと」というお題をいただき、つらつらと話してみた。

それに対する参加者からのレスポンスに(非常に感度の高い方だったおかげで)、僕が焦っている理由の一旦に触れることができた。

 

人生の”終わり”への意識

 

いつも「死」や「終わり」を意識している。

中学校から憧れるミュージシャンは、26歳まで命を燃やし続けて終わりを迎えた。

好きな作品で、生き切って死んでいく登場人物たちの姿が心に残った。

憧れたいのちの現場では、人生の舞台を降りていく人たちの、多様な終わりや間際に直面し、関心を覚える。

 

「人は(生き物となんら変わらず)いずれ死ぬ」

その意識が、昔から強いのだと思う。

 

「いのち燃やして生きていたい」

かっこいいと信じる生き方に、いくつになっても憧れている。

 

僕が焦っているのは、死や終わりを意識してきた結果、今生きている時間に対する焦りが標準装備になっているからだ。

 

他の誰かのように、あなたが長く生きられる補償なんて、どこにもない。

「ああしておけば」なんて、いのちを燃やさなかった人間だったことを、自分で証明する気はさらさらない。

人生の甘えにつける薬が、他人から処方されることはない。

僕は「今日一日を精一杯、駆け抜けるように生きる」という”社会性”のない薬を飲む。

なまじ夢や目標を掲げて動くものだから「焦っている」と映ることになる。

周りで見ている人からすると、危なっかしく見えるのだろう。

 

一度振り出しに戻して話したい。

どうしてそんなに焦らないでいられるの?

 

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Buona giornata.