現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

「〇〇したい」の源泉

Buonasera.
イタリア流の挨拶が、あの頃の自由でいた私自身を思い出させる。

カフェでエスプレッソを飲み干し学校へ向かう。

奨学金をもらっての生活だったが、安定した収入の仕組みをつくれば再びその生活に入れると確信している。

 

「〇〇したい」という望み。

望むことで手に入れてきた経験が、目標を定めて動く力につながっている。

〇〇部分の設定の仕方にもいろいろある。

望めばすぐに手に入るもの、少し無茶をしなければ届かないもの、いつまでも手に入ることがないもの、すでに手元にあるのに見ないようにしているもの。

 

「〇〇したい」という欲求は、実は己の人生に不足してきたものが自らに反発するように現れ出たものという捉え方がある。

たとえば私の場合「自由に人生を生きたい」という欲求がある。

自由は、「心のままに、やりたいように」という意味で用いている。

これが「これまでの人生は自由でなかった」という無意識からの反発として現れているということになる。

誰かが決めた規範に則り、そのルールの中で最も適切かつ優秀とされるパフォーマンスを行う。

優等生を演じ切るには必要なことだったのだろう。

 

昔からこの姿勢が染み付いていたことを物語る小学校2年時のエピソード。

15分休みに縄跳びをするという担任が決めたルールを、なぜかその日は誰も守らず私1人ルール通り縄跳びをした結果、担任は激怒、私1人だけ給食を食べることを許された日があった。

1人見られながら食事する気まずさと、評価されて嬉しいのか周りにも縄跳びするように言えなかったのかという後悔など複雑な気持ちといったら、思い出すと気持ちが悪い。

あの時みんなと一緒にルールを無視して、全員で怒られるほうがよっぽど良かったのではないか。

規範によって自由になれなかった苦い思い出だ。

 

あなたの中の「〇〇したい」という欲求。

その源泉はどこにあるだろう。

気づいてしまったとき、自己崩壊を起こし座り込むことも、自らを欺くように動き続けることもできる。

以前、私自身は蛹の期間に入ったと書いた。

蛹の中ではかつての形をもった幼虫はドロドロに崩れて、時間をかけて新しい形になって生まれ出る。

ドロドロに崩れるという表現がマッチする私は前者の自己崩壊を起こしている状態らしい。

 

アイデンティティ・クライシスを迎えたときに自らに向き合いきれるか。

エリクソンの発達段階モデル、心理・社会的モラトリアムへの扉が開かれた。

以前「私は学生である」と述べたのは、意識がエリクソンの言うモラトリアムへと開かれる予兆だったのかもしれない。

Buona serata.