現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

今のこの気持ちは今しか書けないので

Buonasera. 

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文字を、闇夜に空打ち。

喜びとか、興奮とか、悲しみとか、不安とか、恐れとか。

世の中をシンプルに、シンプルにしたら、感情だけが残るはず。

その感情の上に、たくさんのものを乗っけられるのがぼくたち。

 

乗っけすぎて複雑にしすぎると嫌気がさすから、時々下のほうからひっくり返したくなる。

ぶっ壊したくなる。

 

お互いに不安で、慎重に横を見ながら牽制し合う、後ろからくる人にも同じようにやらせる人たち。

 

好きじゃないな。

 

自分の言葉で、自分の意思で、自分の感情で。

誰のものも借りないで、しゃべる、歩く、身を捧げる。

 

何書いてもピュアな不安がいるし、何並べても最後はフラグ回収に終わるって恐れも確かにいるんだけれど。

「案外余裕だよ」って言って、医師国家試験終えようと思います。

10月か11月からなんとなく始めれば間に合うよ、て。

1月から本気出せば間に合うからって。

おれは絶対言うから。

 

Buona serata.

2022年も旅先は不明で

Buon anno.

 

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あっという間に2022年も1週間が経ってしまいました。

という月並みな文章から始まり、医師国家試験ごときでヒイヒイ言ってる僕は、月並みな非凡さを発揮して本年も歩んでいこうと、車酔いと摂りすぎたカフェインで動悸がして勉強が手につかないため文章を綴っています。

天才コンプレックスそろそろやめにして、今年の目標は「天才になる努力を始める」とかどうかな。

 

今年試験を受かれば実現すること、受からなければ実現しないこと、受からなくても実現しそうなこと、など未だ合格ラインに立っていない身であれこれ考えます。

ギリギリの帳尻合わせってみんなやらないんだよね、こればっかりは性格だよね。

 

「結果がすべて」

そうやってきちんと結果を見てくれることが、ありがたい。

「過程が大事」

そこまで僕を愛してくれる人がいるなら、生きていてよかった。

 

1ヶ月先はおろか明日のことも何もわからないけれど、この身体を十二分に操って、今できる最大のパフォーマンスを出し続ける努力をしていきましょうということなのです。

どうか自分を大切に。

要するに国家試験終わるまで酒をやめましたという話なんですね。

 

Buon viaggio, anche nel 2022.

道無き道に、終わりなきいのちの歩みをゆだねて

Buonasera.

なんの意味も無い言葉を、意味を込めず並べると、こんなタイトルになる。

なんの意味もない僕の24時間の積み重ねが、なんの意味も無い文章になる。

 

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地球は回る。太陽が沈むんじゃなくて、僕らが遠ざかる。

 

人生に意味なんて無い。

人生に答えなんて無い。

自由なんてない。

生きることに、意味なんて無い。

…ない、今ここには。

 

26歳になる年だった。

26になったら僕も彼みたいに死ぬのかなって中2病の名残、本気で思ってた。

そして26になって、まだ生きるっていう選択肢を得た。

もっと言うと、「まだまだ生きるぞ」っていう欲みたいなものだった。

 

今ここに答えはない。

どこまでいってもない。

何も無い。

僕の24時間の積み重ねが、世界を変えるなんてことはない。

僕がいてもいなくても地球は回って、時間は流れて、繰り返す。

医者になろうが、事業を起こそうが、成功を収めようが、救われない人だらけで、この人生はどうしようもないんだってよくよく分かった。

 

どこまでいっても意味の無い人生に、

言葉と、音楽と、料理と、表現とを、積み重ねる。

どうしようもないんだよって、そういう声を大きくするため。

どうしようもないから、大丈夫だよって、声を大きくする一員になるため。

僕は、まだまだ生きる。

繰り返すんだから、次の彼に「大丈夫だよ」って声をかける人になるために。

 

 

 

2021年は本当に長い1年だった。

気が遠くなるほど長かった。

きっと、これまでの人生の中で1番長い1年だった。

26年間が1回死んで、生まれ変わった。

そんな今年を漢字にするなら「始」。

死んで、分解されて、生まれて、また始まる。

せめて妄想だけでも、2度と我慢も制限もなく、伸び伸びと育っていいと思うんだ。

 

「きっといつか答えは育むものだと気づく。育むものだと気づく。」

尾崎豊「優しい陽射し」

 

Buon anno.

La sua vita è bella.

 

【3/3日目】1日の始まり、いのちの終わりを告げる〜総合在宅医療の現場で〜

Buonasera.

岐阜県岐南町にて「医療法人かがやき 総合在宅医療クリニック」における3日間の見学。


 


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3日目の朝。

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ロッジの部屋で、朝日が当たる壁の木の香りとともに目を覚ます。

朝から少し作業をしていたら、理事長の市橋先生が呼ぶ声が聞こえた。

 

「お看取りの連絡が入ったから行こうか」

 

在宅の現場は何度か経験していたけれど、お看取りの場面は初めて。

先日祖父が旅立ったばかりで、この機会に何も感じないわけがない。

早く目が覚めていてよかった。

 

車の中でこれまでの簡単な経緯を聞いてお宅へ。

すでに亡くなられており、早朝からご家族が集まっていらした。

医師の役目である死亡確認へと進んでいく。

 

 

人の死は、

・脈がないこと

・呼吸が止まっていること

・光に対する瞳孔の収縮がないこと

の3つで決められている。

現代的な儀式として、確認をし、亡くなった時間と事実を告げる。

その時の周囲の反応は、見送られる方お一人お一人に応じて実に多様だ。

思い出を振り返ることも、医療者や介護者への感謝を述べることも、これからのことを話し始めることもある。

故人との関わりを振り返り、思い出し、1つ1つ言葉にしていく。

言葉が、故人の全存在を分解し、残された者の気持ちに混ぜ込まれて、人生の栄養となっていく。

医療者が死の瞬間を宣告することも、このような残された側の故人の死を分解する営みも、残された者へのケア、「グリーフケア」の重要な要素なのだ。

グリーフケアは故人の死を皮切りに始まるわけではない。

亡くなる以前から、いのちの終わりと、終わりのその先に向き合う心に寄り添うこと全てを指すのだろう。

 

在宅医療のゴールの1つである「自宅における死」。

自宅において死は、病院に閉じ込められず、情報処理をされず、周囲に時間的な遅れのない形で、生活の一場面として共有される。

いのちの終わりが生活の中で自然に達成される。

病院における死や突然の死とは異なり、生活した場所における死は、周囲の残される者に生命が成就する姿をその死をもって語りかけているように思う。

 

人類の歴史は、死から得られる「深い悲しみ」に他者と協力して向き合い、次へ次へ形を変えて渡し続けてきたグリーフケアの歴史なのかもしれない。

 

 

その後、市橋先生とモーニングを食べながら医療法人の取り組みや次の目標について伺った。
医療法人ができることは診療だけでなく、グリーフケアや場所づくり、後進育成と本当に多様だ。

新しい物事が始まることに関わるとワクワクする。

僕は新しいことをし続けるし、誰かが始める新しいことに関わり続けていたいと思う。

 

 

この日は看護師さんと一緒に行動し、訪問看護の現場を見学させていただいた。

1人暮らしの高齢者のお宅では、社会が保証する医療のケアによって、認知機能が落ちてきたあとも、独居であっても自分の家で過ごすことが可能であると知った。

身体機能や認知機能が落ちる前のようにとはいなくとも、支援があればその人が自分らしく生きていた空間で生きることはできる。

患者さんの顔や言葉からはもはや何も読み取ることはできなかったが、その人生は在宅で過ごすことによって輝き続けていたのかもしれない。

 

 

在宅医療の現場で3日間を過ごした。

在宅医療は「効率」というワードに対しては脆い。

なんでも一カ所に集めて行えば、簡便で効率的で社会的価値が高い。

生きた場所で死ぬまでをケアが必要な状態で1人で過ごすのは効率的ではない。

そんな旧時代的な「効率」という言葉が切り落としてきた、感情や生きがいといった質的なものが在宅医療の現場ではよくみえた。

 

人間のいのちってなんだろうか。

僕らは自分と誰かのいのち(=死)をモノとして扱ってきた。

今もそうしている。

使えばすり減り、休めば元に戻り、メンテナンスで長持ちするいのち。

消費し、治すものとしてのいのち。

現在のいのちの扱われ方は、発信元である医療や保険がずっと積み重ねてきた営みの結果だ。

もう効率の時代が終わるなら、仕事や消費や地球環境のこと以前に、いのちについての考え方を更新することこそ必要ではないだろうか。

医療がある程度の範囲の地域で複数個のモデルをつくり、エッセンスを抽出して、いのちの扱い方について社会に提言していくことだってできるのだろう。

在宅医療は医療社会学や死生学といったものとの相性も良さそうだ。

まだまだ取り組みがいのある分野だと感じる。

この3日間の経験は在宅医療を学ぶだけでなく、医療者として、料理人として、1人の人間として「いのち」を捉えなおすきっかけになった。

 

3日間受け入れてくださった医療法人かがやきのみなさまに感謝を込めて、このシリーズを終えたいと思います。

 

Buona notte.

 

 

 

【2/3日目】口を診て暮らしをみる「現在」の医療の姿

Buonasera.

岐阜県岐南町の「総合在宅医療クリニック」さんの見学2日目の記録。

 

 


 


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この日はクリニックの「食チーム」のお二人についていくことに。

食事と医療が「健康」という目標に向けてどう動いていけるかを考えようという僕にとって、実際の取り組みを1日かけて見学させていただけるのは本当に代え難い経験だ。

今日のテーマは僕の人生の問いである「食事と健康」そのものだ。

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・病識と食識

クリニック「食チーム」の管理栄養士さんに同行して、1日がスタート。

患者さんのお宅を訪問して、食べることについてのケアを見せていただく。

今回は心配事を聞き出してアドバイスをするという往診だった。

食事については患者さん本人が作るのではなく、家族が作って食べさせていることは少なくない。

料理を支える「調味料」というのは、うまく使えば絶大なメリットを、間違えれば大きなデメリットを生み出す。

ご家族は、だしを用いて減塩する提案に対して、たしかに「だし」として売られている食塩メインの調味料を手にしてしまっていた。

しかもよくよく家族のためを思っての選択の結果が、それだったのだ。

買い物の場面で、いろいろとパッケージを見比べたり値段を見比べたりとしたことだろう。

そこにたしかに愛があって、人の生活は支え合って成り立っている。

しかし、その結果選び取ったものを使っていては、減塩は一向に進まないのである。

商品も情報も、多すぎるんだ。

もはやどう嘆けばいいのか、この憤りの行き場が分からない。

 

医療者は病気に対する理解度という意味合いで「病識」という言葉を使う。

医療者と患者が手を取り合って、治る力や生きる力を引き出すには、病識の向上が欠かせない。

病識をもとに考えを深めてみると、病院内で病気を診る関係性から在宅で暮らしをみる関係性になることで「食識」も重要になってくると言えよう。

食事が患者の生活を支えている、その食事への理解が得られなければ、患者の生活が在宅に耐えられようか。

さらに深めれば、患者やその家族の食識を高める提案は医療者が食識を持ち合わせていない限り達成されない。

情報を整理して目の前の患者や家族に最適の選択肢をつくり、提案するということ。

この場面では管理栄養士さんが適切に介入できたことで、家族が選び抜いた調味料は一度お蔵入りとなることになった。

これこそが理想とする医療の介入だ。

ずっと抱えてきた「医療者こそが食事の知識と理解を持つべきだ」という考えが、より強化された場面だった。

この岐阜県の1地域で起きたことは、全国で起きる必要があるのだ。

 

・「看取りの食支援」に見る食事の身体効果以上の可能性

クリニックの食チームの姿勢として、「看取りの食支援」というキーワードをご紹介いただいた。

死にゆく人も、可能なら口から食べる支援をする。

誤嚥、窒息というリスクがあっても口から食べさせること。

病院医療においては絶対悪とされるであろう選択も、在宅の場面で生活者と医療者が手を取り合う時、曖昧になる。

疑問を投げかけたい。

身体の健康は食事、心や生活の健康は運動や睡眠や趣味。

こんなふうにまるで医療のように生活が「専門分化」し始めたのはいつからだろうか。

そうでないとみんなどこかで分かっているはずなのに、簡単で分かりやすい方へ向かっていく。

 

「看取りの食支援」。

「食べる」という行為を通して人が幸せな最期を迎えられる支援。

いろいろな意見は受け止めつつ、「食べる」という行為の価値を、ただの「口からの栄養摂取」とは考えていないからこそこの言葉なんだと伝わってくる。

この姿勢こそが医療の枠を越えて、人のいのちをみるいのちのプロフェッショナルたちの、あるべき姿でないだろうか。

 

・「食事は医療行為じゃないから」

管理栄養士さんが漏らした言葉を聞き逃すことはできなかった。

これこそ僕がずっと抱える矛盾だからだ。

医療行為には国からのお金がつく。

食事指導にもお金がつくが、微々たるものだ。

食事は現代において、医療行為ではない。

 

管理栄養士さんたちが置かれている立場や葛藤があらわれたひとことだったと思う。

医師は様々な行為で人の命を救い、感謝される。

そこに自らの存在価値や医療、自らが拠り所にするシステムそのものへの疑問は湧きづらいものだ。

 

・算定しない仕事とポイントになるシュート

理事長である市橋先生が例え話をしてくれた。

医師はバスケでいうところの2ポイント、時には3ポイントのシュートを打てる。

食チームはポイントにならないけど存在し動いている。

食チームの動きは、1つ1つが決して点数にはなりづらい。

0点のこともある。

それでも市橋先生は食チームが、自由に動くことを推めている。

なぜか。

クリニック全体としての取り組みとしてみているからだ。

それが生活をみるということだと理解しているからだ。

算定されない仕事を推進してまで生活全体をみていくことができるクリニックの大きな度量に依るところであることは言うまでもない。

つまりは、「そういう仕組みをつくれ」ということだ。

医師や他職種が打てるシュートは2点、3点と得点になる。

いくらパスを回してもパスは得点にならない。

でも的確なパスと作戦がなければ得点は得られない。

物事を独立させずに考えるんだ。

シューターにボールが回るまでの線を無数に引くんだ。

そして、その作戦ができるようになるまでやる。

ポイントにならない動きもしながらシュートを打つという例え話に、そこにたどり着くまでの努力と歴史が顔をのぞかせていた。

 

・病識が変わる瞬間

午後からは歯科衛生士さんとの回診。

僕にとっては、前回記事にした1日目に伺ったお宅に、次は口腔ケアで伺うことになった。

この経験は変え難いものだった。

 

前日の時点で患者さんのキャラクターは見えていた。

なかなか手強い人で、先に言った「病識」の部分が十分でないと個人的に感じていた。

歯科衛生士さんがトライし始めてもそうだった。

全然治療やケアに協力が得られない。

病識が十分でないとこのような結果になる。

治る力や生きる力を引き出すことができない、医療が機能しないのだ。

「そうだよな、この人は仕方ないよな」

そう思った。

今日はこれでお暇だ。

 

だがここから、まったく予想していなかった展開になる。

歯科衛生士さんの粘り強い働きかけによって、患者さんがついに治療に協力する姿勢になったのだ。

しかもその時得たい「最も良い結果」にまで治療させてくれたのだ。

たどり着くまでは20-30分ほどだっただろうか。

一つ一つステップを積み重ねて言葉をかけ続けた結果、ベストの結果を得ることになった。

これには感動しかなかった。

「医は仁術」なんて言葉があるけれど、たしかに仁術なんだと思わされた。

治らないと思われた病気を美しく治してみせた、なんて現代的な美談をはるかに超えた感動が、あの歯科衛生士さんと患者さんとのコミュニケーションの中にあった。

患者の病識が一気に変わる瞬間がある。

そのための努力をできるかどうか。

医療者の力量でもあり、その医療者の地盤となるチームの力量でもある。

ここでは確かに医療が機能している。

チームが出来上がっていなければ、次にも患者が待っている以上、あの粘りはできない。

それを「やっていい」という日頃の共通理解が基盤になっているのだろう。

歯科衛生士さんの行った医療は、どこで見たものよりも劇的で美しかった。

 

・口腔ケア、口から始まる支援

食チームの、特に歯科衛生士さんが中心になって、クリニックが診ている患者さんの口内の確認を、クリニック全体で意識づけて行なっていることに感心した。

看護師さんたちも、訪問看護先で口内を確認することはよくあると話していた。

それも、食チームが口内の情報が患者さんにとって重要であることを理解してもらえる努力を重ねてきたからだろう。

お互いがお互いの仕事を理解して、その価値を認めて補い合う。

全員がその働き方をするチームはどこから突いても崩れない強さを持っているように思える。

口から始めて、食事や全身状態の管理へ。

目の前の病気を越えて、全身と、その生活をみる入り口になっている口。

口腔の状態が良くなることで生活が劇的に改善する例はいくつもあると聞いていたし、総合在宅医療クリニックではたしかに結果を出している。

口から医療が入り、口から結果が出る。

在宅医療は口に始まり口に終わる、飛躍して、医療は口に始まり口に終わると言えるのではないだろうか。

 

「未来の医師は薬を用いないで、患者の治療において、人体の骨格、食事、そして病気の原因と予防に注意を払うようになるだろう。」

The doctor of the future will give no medicine but will interest his patients in the care of the human frame, in diet, and in the cause and prevention of disease.

エジソンが言ったとかいうこの言葉。

食事はもちろんのこと、ここでいう骨格とは歯や顎の骨のことでもあるはずだ。

 

未来の医療の担い手を、医療の枠を越えて増やしていく。

そろそろ「未来」でなくなってくる頃だろう。

「現在」にしている場所がここにあるのだから。

 

Buona serata.

 

【1/3日目】朝から新鮮、夜中まで新鮮な「総合在宅医療」の現場で

Buonasera.

 

学生最後の時間を最大限活用するために、クラッシュするまで走り続ける国家試験前最後の旅。

11月8日からは岐阜県の「総合在宅医療クリニック」さんにお邪魔して3日間、見学をさせていただいた。


 


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その1日目。

さっそく「総合在宅医療」という僕にとっての新概念に圧倒されていた。

 

・好きな場所で、好きな場所を選ぶ

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週のはじめは医療者はじめ各職員がそれぞれでの打ち合わせからスタート。

クリニックの本拠地である「かがやきロッジ」は3階建てで1、2階は吹き抜けの広々とした空間。

建物内は木材で構成されていて落ち着きを与えてくれる。

高い煙突を吹き抜けの2階まで持ち上げているイタリア製の薪ストーブは、行き交う人たちを静かに威厳をもって温かく見守る。

ダイニングスペースのアイランドキッチンで、コーヒーを入れたりお茶を飲んだりお菓子をつまんだりする中に朝の会話が散りばめられている。

この空間は一発で好きになれる。

その好きな空間で、各々が好きな場所を選んでオンラインの打ち合わせに臨む。

広々とした好きになれる空間の、その日好きな場所で仕事を始める。

これほど幸せな働き方は、なかなかないと思う。

 

・新しい概念を規定するリーダー

打ち合わせや申し送りが終わったところで、1日目は院長であり医療法人かがやきの理事長である市橋先生にくっついて、かがやきが取り組む総合在宅医療について現場で学ばせていただいた。

十人十色のあり方で家にいながら身体の状態にあわせて、その人と家族のペースで暮らしている。

それをサポートするクリニックや事業所があって、病の診療や生活の介助を架け橋にゆるやかに生活の中に医療が溶け込んでいる。

チューブや脱脂綿、呼吸器が家に馴染むかのように配置されている。

家の配置に合わせて、処置を受ける人の位置に合わせて最適な場所にものが配置されて、家という1つのクリニックができているかのようだった。

医療者や介助者が持ち込むものだけでなく、家にすでに配置された道具や機器も用いることが、「外部からの支援」というハードルをグッと下げているのではないだろうか。

10年以上のクリニックの歴史や岐阜市周辺がもつ在宅医療の文脈の上に、病気が生活の中に取り込まれようとする動きをみた。

その大きな動きをサポートする営みが「総合在宅医療」なのだろうか。

「総合」というのが「どんなタイプの病気・医療でも対応します」という意味でないことは分かったように思う。

 

・深夜往診25時

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夜25時、市橋先生から連絡。

患者さんから電話があったとのこと。

深夜の在宅救急の場面に巡り会えた(たまたま目が覚めていてラッキーだった)。

着替えて出発の準備を整えたところ、まず先生直々の臨床病理のレクチャーをしていただいた。

基礎疾患を抱える人の「腹痛」というと、考えるべきことは無数にあると認識を改たにする。

レクチャーで勉強したら、車に乗り込み患者さんのお宅へ。

車の中で論文を調べてレクチャーの情報と照らし合わせ、今回の患者さんに必要な検討項目を絞り込んでいく。

これが在宅の救急か。

スピード感と、医者が患者を待つ病院の救急とは違う空気感に新鮮さを覚える。

到着して患者さんの様子を診てみると落ち着いていてひと安心。

おかげでそれ以外の部分に目が行く。

在宅で深夜に人を呼ぶということは、患者本人とその家族は深夜に寝られていないということ。

年齢によっては認知症もある。

訴え以外の別の問題がよく見える。

病気が激烈に体を襲う場所ではなく、病気と生活がせめぎ合う場所に目を向けることができた。

 

こうして足を運ぶ中で、何回に1回かの見逃してはいけない病態をつかまえたり、たとえ病気が軽度であっても本人や家族との関係性をつくっていく。

在宅でクリニックを構えて人の生活に関わっていくために時間を積み重ねていく、在宅医療の営みを目の当たりにした。

今の総合在宅医療クリニックの姿は、クリニックそのものの歴史と、関わる1人1人の歴史とがかけ算された結果なのだと感じた。

日中一緒に回った看護師さん、ドライバーさん、他のクリニックのスタッフさん、患者さんや家族、ほかの事業所さんたちの歴史まで包括し、表現する。

それこそがチームであり、その総体として法人という姿があるのだと認識した。

その姿にたどり着けるように。

まだまだ学ぶことはたくさんある。

早く医者になりたい。

 

ロッジに戻ってきて朝3時。

やり切ったという気持ちで明日に備えて眠りについた。

2日目へ続く。

 

Buona serata.

旅人が抱える不安とシェルター

Buongiorno.

これで家を離れて1週間以上経つ。

自らを元来の旅人であると思っているが、今回の旅は今までになく負荷が大きい。

仕事を抱えながらの仕事探しに、国家試験対策。

自ら招いたハードスケジュールの中で、えも言われぬ不安と無力感に向き合った夜があった。

 

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「帰るところがない」「行くところがない」「評価されない」という社会的に弱い立場にいる状態は精神にひどく痛手を与える。

社会には今の僕みたいな人を無条件に受け入れてくれる場所が必要だ。

「ここにずっといていい」「しばらくいていいんだ」と思わせてくれる場所、まさしくシェルターとなる場所が必要だ。

 

時に人は1人の人間の不幸や悲しみを受け止められるほど優しくなれない。

優しくなれる人たちが優しさを分け合って、場所をつくるんだ。

場所を用意するだけで再び立ち上がれる人間もいる。

けれど世の中には回復する力すら持たない人間だっている。

必要な期間は十人十色。

それでも「受け泊め」、回復を待ち、引き出す場所が必要だ。

 

旅人は彷徨い、疲れている。

一杯のコーヒー、一食の食事、一泊の宿。

これだけでも落ち着くのだから、1週間、1ヶ月となるとなおさらだ。

イタリアで受け泊めてもらった経験を思い出した。

朝起きてダイニングを歩く、それだけで幸福感に包まれた記憶。

旅人が、旅人でなくいられる場所が必要とされている。

 

Buona giornata.