Buonasera.
1月は充電の期間とします!(聞いてないけどね!)
僕が目指す世界は。その手段は。
医療?料理?お酒?食育?それとも…。
たっぷり潜る1ヶ月にします。
息つぎはこちらのブログにて。
今日は難しい読書の整理をします。難しすぎた。
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」(日高六郎 訳)(初版1941年)を、数年ぶりに続きから読み始めました。
中途から急に始まるので、気になったら1からトライしていただければ。
「S?M?どっち?」なんて、中学生の頃やりませんでした?
あの手の質問の受け流し方が非常に苦手だったので無駄に覚えてます。笑
そんな中学生時代の自分がサド・マゾをまったく理解せず無邪気に使っていたことを知った本日です。
第5章はまず「神経症的な人間」、現代風に言えば「病んでる人」の社会に対する反応について論じていきます。
「病んでる」に対する言葉として「正常」「健康」な状態を大きく2つの視点から捉えます。
①社会にとって望ましい行動ができること(所属する社会から見た視点)
②個人の成長と幸福のための最上の条件(個人の視点)
①と②が一致することが理想だけど、現実の社会で①と②が一致することはほとんどない。
適応が上手な人は①的な「正常」「健康」と評価されるが、それが自己実現を諦めて社会に合わせている状態なのであれば②的な「正常」「健康」は達成されていない。
①と②の両立があり得ない社会において健康・正常でない、つまり「病んでる」人は、社会に合わせることなく自己を貫かんとする人のことを指すと言える。
大多数の人が①であろうと動くので、「病んでる」人は社会(=大多数)から理解されないし、そんな孤独な状況に心のバランスを崩せば名実ともに「病んで」しまうわけである。
自己を決して諦めず、社会に合わせないことを貫いた人は晴れて「病んでる」認定を受けるわけである。
なんと残酷な。
現代においても例外ではないこと、お分かりいただけるかと。
さて、次に本題の逃避のメカニズムについて。
個人が上の②を優先し社会・世界と対峙してしまった時に生まれる孤独感、無力感に開かれる2つの道。
①「積極的自由」へと進める道
②後退し、自由を捨てさせる道
①の道に行くことができれば、この人生の闘いに大勝利。
純粋に、自発的に自分自身を世界と結びつけることに成功し、自分を捨てることなく、一度は分かれてしまった人間、自然、はたまた自分自身と再び1つになることができる。
社会や他者のしがらみから自由になり真に自分らしく生きられる、とでも言っておこう。
他人が「病んでる」と言おうが関係ない 。
自分が自分と一致した、もはや敵は無い(無敵)。
こういう人に向けられる大多数からの「病んでる」は「うらやましい」の言い換えに過ぎない。
一方、②の道に行けば自分と世界の間にできてしまった分裂をなかったことにすることで孤独にうち勝とうとする。
仮に分裂をなかったことにし、別のつながりを見つけることができたとしても、分裂は分裂のまま残る。
一度生まれた分裂を、なかったことにはできないわけ。
この状態が長引くことで、個性や自己は世界との分裂を前にしぼんでしまい、まさしく「病んでる」状態へと突入する。
耐えがたい不安を和らげ、恐怖を避けることで生活していくことは可能になるかもしれないが、そこに根本的な解決はない。
病んでる状態のまま、世界との分裂に代償を払いながら生きていくことになる、と。
ここまで言葉選びがいちいち怖いけど、事実としか言いようがない。
この時点で80年前の著作が今も読まれ続ける理由が十二分に分かる。
この②の道に進んだ人こそ、第5章で扱う「逃避のメカニズム」の分析対象。
一旦整理しよう。
・「健康・正常」と「病んでる」、2つの状態がある
・どちらに当たるかは社会の視点、個人の視点どちらで見るか次第
・社会の視点と個人の視点は、両立できない
・社会の視点を捨てて個人を貫こうとすると大多数から「病んでる」と言われる
・大多数から「病んでる」呼ばわりされる人の目の前に2つの道が表れる
・一方の「積極的自由」の道に入れば大勝利。その他大勢の声なんて、もはや聞こえません
・もう一方の道へ入るとご存知「病んでる」状態に。ここにたどり着いた人に起きる「逃避のメカニズム」を分析していきますよ。
ここまでよろしいでしょうか。
見開き3ページ分をまとめるのに2時間近くかかってます←
内容が濃すぎるんだわ!
さて続き、いきますよ。
逃避のメカニズムで最初に起きること。
世界と対面して明らかになってしまったた自分には欠けているものを補うために、もはや己を捨てて、自分を自分以外の誰か・何かと結びつけて一体化しようとする。
それが、マゾヒズム・サディズム的な努力のもとに表れてくると。
マゾ・サドどっちだとしても、それは耐えがたい孤独からの逃避でしかなく、何の根本的な解決にもならないにも関わらず。。。
まずはマゾヒズムから。
マゾヒズム的な努力としては「自分は無力だ、無意味な人間だ、劣っている」と思うことが、最も頻繁に起きる。
意識の上ではそう思っていることを否定するけど、無意識には無意味、無力だという思いから逃れられなくなっている。
頼りにしている人に反抗したり、答えが分かっている問いに答えなかったり、端から見ていると「なんで自分で自分を追い込むの?」と聞きたくなるような行動をとる。
自分を小さくし、傷つけ、他の誰か・何かに服従する。
このマゾヒズム的な依存が「愛」や「忠誠」といわれ、劣等感は欠点をよく言い表している、悩みは環境のせいだ、と合理化される。
一方で正反対とされるサディズム。
実はマゾヒズムと似たような性格の中に見られるらしい。
サディズムには大きく分けて3つ。
①他人を自己に完全に依存させる
②他人を絶対的に支配しようとすることに加えて、身体的にも感情的にも搾取し、利用し、ぬすもうとする
③他人を苦しめ、または苦しむのを見ようとする
③の苦しみとは、肉体的なもののこともあるが、圧倒的に精神的なもののほうが多い。
そしてサディズム的傾向もマゾヒスト的傾向と同じく合理化されることが多い。
他人に対する過度の善意、過度の配慮の結果なのだと。
ここで重要な点。テストに出るよ!
サディズム的人間と、その対象との間で見逃されやすい「サディズムの対象に対してサディズム的人間が依存している」ことについて。
サディストは、彼が支配する人間を必要としている。
サディストのサディストたる所以は、支配する対象がいるからこその強者としての感覚であって、対象がいなくなればそれが失われてしまうから。
この関係が破れそうなときに都合の良い「愛」が顔を出す。
かれは支配している人間のことを「愛し」ている。
否、かれはかれらを支配しているからこそ、「愛し」ている。
自由独立の権利以外のすべてを与えるという支配になって、この関係が両親と子どもの間に生まれることもある。
子どもを保護するという「自然」な配慮や感情のようなものでかくされてしまう。
いざ子どもが成長したとき、子どもは「愛」に対して恐怖を抱く。
彼にとって愛は自由を求めながらもとらえられ、とじこめられることを意味するのだから。
一旦休憩。
親子の間に支配の関係が生まれうるといっても、子どもにとってはどうしようもないこと。
現代社会にもたしかに横たわっている問題。
「貧困の連鎖」というものが日本にも世界にも間違いなく存在するけれど、同様の構造で断ち切り難い鎖となって続いていくことが、大なり小なり起きている。
究極は放任主義なんだろうかと、ふと己をふり返って考える。
僕は立派な父親になれるだろうか。
世の中に重く横たわる鎖を断ち切るために、生きられるだろうか。
サディズムとマゾヒズムを比較すると、サディズムの攻撃性はまだ分かりやすい。
一方でマゾヒズムの自分を小さくし、おとしめる姿勢は謎が多く見える。
と、フロムは論じる。
なぜ苦悩や苦痛に惹きつけられ、それに向けて努力するのかと。
その説明として挙げられる、「マゾヒズム的倒錯」である。
肉体的に傷つけられ、精神的に弱くされることで満足感を得るのである。
「サディズム的倒錯」においては、この逆が起きている。
マゾヒズム(サディズム)的倒錯と先に述べたマゾヒズム(サディズム)的傾向が性的に似ているということで、よく耳にするサド(S)・マゾ(M)の話になんとなく近づいていく。
ここでフロイト的サディズム・マゾヒズムについて論じられ、本質的にはサディズム・マゾヒズムは非性的現象であって、ひとつの部分として性的な要素があるに過ぎないという。
1人の人間の中で死に対する本能と性に対する本能が融合し、自己に向けられればマゾヒズム、他人に向けられればサディズム。
かれの中で人間が持つ破壊性と性の融合に失敗すれば、他人か自己を破壊するしか他になくなる。
これは、まあ大変だ。
ちょっとタメになる時間つぶしくらいにはなったでしょうか。
第5章の一部、頭の中を整理してみました。
次回は続きからやってみよう。
Buona notte.