現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

「今日まで生きてきてよかった」のために

Buonasera.

 

生きることは、関わること。

これまでずっと「苦しい」と思っていたことが、ふっと軽くなる瞬間がこの4ヶ月に詰まっていたように感じる。

きっとずっと憧れた”医師”という肩書きを手に入れたことが大きく作用しているのだろう。

 

「何をしたいんですか?」「何をしているんですか?」と問われたときに、

”what(=やっていること)"を答えることに自分自身、違和感を抱き続けていた

何かずれているし、遠回りになるし、”説明的”だと。

僕による僕自身の理解が足りていないことにもどかしさがあった。

このごろ、食事の場と健康っていう話とか、飲酒を通した食育のこととか、いわゆる”what"の部分じゃない答えをするようになってきた。

 

「人の『今日まで生きてきてよかった』のためにやっています」

 

僕自身への、そして僕と関わることになったあなたへの祈りみたいなもの。

死ぬ時を迎える誰もが、死ぬ瞬間に「今日まで生きてきてよかった」と思える世の中だとすれば。

本人は自分の死にすでに納得しているから、その瞬間を心安らかに迎えられる。

その周りの人は、いつ訪れるか分からない自分の死にすでに納得しているから、他者の死にも納得できる(もちろん時間はかかると思うが)。

そんな理想の社会で、人は”医療”を必要としなくなるとすら思う。

 

僕は「今日まで生きてきてよかった」の原体験が食事の場にあるからイメージできるもんで、食事の場でやろうっていうだけ。

同じ答えを持って音楽をする人もいるだろうし、器をつくる人もいるだろう。

積み重ねた「今日まで生きてきてよかった」が人生を楽しく感動的に、幸せにするだろうし、つらいときを乗り越える力になってくれる。

短い人生の「今日まで生きてよかった」の1つを、僕がつくる食事の場で感じてくれないかと、僕は食事の場を提案し続ける。

 

誤解を恐れず言えば、全ては僕自身のために。

それがきっと、いつか訪れる死を前提とした僕の生きる意味なのだと今は考えるから。

その信念が誰かのもとに届く瞬間を重ねることで、僕も「今日まで生きてきてよかった」を重ねられるから幸せになれる。

 

1ヶ月前。

ふと友人に「どうして(いろいろと)やってるの?」と聞かれたとき。

「僕が生きづらいからやってる」と、これまでと同じように即答した自分への違和感

ここのところあれこれと考えて1つ思い当たった。

冒頭に述べたように、医師という、あのときどうしても手に入れたいと思った肩書きが手に入った今。

もうあんまり生きづらくない自分に気がついた。

だからこれからは「僕が生きづらかったからやってる」ってことになるんだと思う。

ちゃんと抜けられる道があるんだと、今を生きる姿で伝えていけることがあると思う。

 

「時間」っていうのは実際、治療につながる大事な要素だと思う。

この仮説はこれからの人生で温めていこう。

 

Buona serata.

 

 

 

「どうしてそんなに焦っているの?」

Buongiorno.

 

20代の終わりが視界に入っても、若いままでしかいられない自分への詩。

 

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どの人生にも焦りが生まれるから、「焦りは禁物」「急いてはことをし損じる」「急がば回れ」なんて言葉が編み出されてきたのだろう。

 

2021年、大学も最終学年とはいえ、あれこれと動き回っていた頃。

「焦っている」と形容されて、自分が焦っていることに実感が湧くようになった。

どうして焦っているのかは分からないままなので、ふとした時に「焦っている」と声をかけられ、自分でも「そう、確かに焦っている」と自覚はしていた。

それでも理由は皆目見当がつかなかった。

 

昨日久しぶりに「焦っている」と指摘された。

またどこで焦りの材料を拾ってきたのか。

心当たりはないまま「たしかに近頃、焦っているのかも」と納得感はあった。

それでも理由はさっぱり思い当たらない。

 

今日登壇の機会があり「人生において譲れないこと」というお題をいただき、つらつらと話してみた。

それに対する参加者からのレスポンスに(非常に感度の高い方だったおかげで)、僕が焦っている理由の一旦に触れることができた。

 

人生の”終わり”への意識

 

いつも「死」や「終わり」を意識している。

中学校から憧れるミュージシャンは、26歳まで命を燃やし続けて終わりを迎えた。

好きな作品で、生き切って死んでいく登場人物たちの姿が心に残った。

憧れたいのちの現場では、人生の舞台を降りていく人たちの、多様な終わりや間際に直面し、関心を覚える。

 

「人は(生き物となんら変わらず)いずれ死ぬ」

その意識が、昔から強いのだと思う。

 

「いのち燃やして生きていたい」

かっこいいと信じる生き方に、いくつになっても憧れている。

 

僕が焦っているのは、死や終わりを意識してきた結果、今生きている時間に対する焦りが標準装備になっているからだ。

 

他の誰かのように、あなたが長く生きられる補償なんて、どこにもない。

「ああしておけば」なんて、いのちを燃やさなかった人間だったことを、自分で証明する気はさらさらない。

人生の甘えにつける薬が、他人から処方されることはない。

僕は「今日一日を精一杯、駆け抜けるように生きる」という”社会性”のない薬を飲む。

なまじ夢や目標を掲げて動くものだから「焦っている」と映ることになる。

周りで見ている人からすると、危なっかしく見えるのだろう。

 

一度振り出しに戻して話したい。

どうしてそんなに焦らないでいられるの?

 

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Buona giornata.

 

 

 

 

 

人生に訪れる「決断の日」

Buongiorno.

今日も「Buongiorno.(=良い日だね。)」で1日が始まる。

この恵まれた安全な世界。

昔より多くの人が退屈するようになった。

何もしなくても生きていける世界で、毎日が今日も明日も続いていくような錯覚に陥る。

今日何をする、どんな仕事をする、何で稼ぐ、誰と生活する、どこで生涯を終える。

どの問いにも、たくさんのすでに整列された答えの中から1つを選ぶことで一歩進んだ気になれる。

 

選ぶこと(choise)と、決断すること(decision)は違う。

選ぶことは、目の前の服の中からどれがいいか試着し続けることだ。

着ては脱ぎ、次を着ては脱ぎ、いつでもまた別のものに変えられる。

一方で決断することは、一着を見つけ出し、それを一生涯着続けると覚悟することだ。

ティーブ・ジョブズをはじめとした“成功者”の一部に、いつも同じ服を着ているという共通点がある。

日々決断を求められる立場であり、「意志決定による疲れ(Decision Fatigue)」を回避するために着る服に使う「決断」をなくすことが役立っていたという。

彼らは一度「同じ服を着る」という決断をしたから、その後の人生で積み重なる決断の質を、より良いものにしていったのだろう。

 

ほとんどの人生が、見えない「流行」の力に押し流されていく。

この恵まれた安全な世界で、あなたはどの道に進みたいだろう。

いずれ、決断を迫られる日がくる。

「流行にのせられる」か、はたまた「自分の道」を選ぶか。

その日は今日かもしれないし、明日かもしれない。

昨日も一昨日もその日だったのかもしれない。

決断の日を、その瞬間を、「忙しい」「疲れた」「できない」といういつか口癖になった流行のワードに押されて、のせられていないだろうか。

 

決断を欠いた人生は、自分の目にさえ、ぼやけて見える。

今日違和感を抱えているあなたがかけている、そのメガネの焦点は合っているだろうか。

あなたにこの文章は、ぼやけて映るだろうか。

人生がぼやけていることを、他人のせいにしていなかっただろうか。

 

僕も決めなきゃいけない。

 

「軽トラは店で買わず、ご縁で継承する」

「週5病院勤務は2年で終わり」

「この土地で生きていく」

「人間の根本を平和で健康に」

 

Buona giornata.

 

 

 

【エピローグ】89日間のつながりで見出した「自分」(冒険の覚え書)

Buongiorno.

 

千葉県鋸南町で過ごした89日間の覚え書き。

ここで得たものは何だったのか。

 

 

89日間を終えてから「つながり」というワードを頻繁に使うようになっている。

結局は人と人とのつながりから変化が起きて、人生が大きく進み、新しいことが生まれていく。

昔から「本や映画や芸術は作品を通した他者とのコミュニケーションだ、たくさんやろう」って布教してたから本能的にはつながりの価値は感じていたのだと思う。

鋸南エアルポルトを中心に起こっていたことの1つは、つながりの連続だった。

 

人とつながることは(都合の)良いことばかりではなくて、衝突や危機を起こすこともある。

これも含めてつながりの化学反応なのだろう。

 

鋸南で一緒に過ごした人たちがやっていたことって何か、考えてみた。

「自分のベクトルと相手のベクトルがどうなっているのか」を、相手を見て捉える。

捉えはするけれど、特に何もしない。

相手のベクトルに力を加えて方向を変えようとしたり、自分のベクトルの向きをいじったりしない。

こんなことだったと思う。そういう場になっていた。

 

人間それぞれのベクトルって近いようでけっこう遠いから、化学反応の進みはだいたい遅い。

片方が相手と向き合うことを諦めたり避けたりすれば、それ以上反応は進まない。

反応が鈍くなったり進まなくなることにイライラして、相手のベクトルを変えようとしたり、自分のベクトルを調整したりしてしまう。

その結果、不和が起きたり争いが起きたりする。

けっこう普通のことだと思う。

 

そういった「普通」をやらない人たちに囲まれて過ごした。

他人に迎合したり、とやかく言ったりしないという部分だけ抜き出して俗っぽく評価すれば、”自分を持ってる人”とか”自信がある人”とかになるんだろう。

 

”自分”とか”自信”とかに対する社会の認識ってちょっとずれている気がする。

自分以外の相手を見つめるから、自分が生まれてくるんだ。

”自分”は、自分だけで手に入るものではないと思う。

自分をひたすら見つめた結果、自分を持てたり、自信が手に入る、なんてことはない。

 

生まれたての頃はお母さんのおなかの中とか、見える聞こえる範囲の狭い自分だけの世界からスタートして、とにかく触ったり口に入れたり他人を呼び寄せたりして、外の世界に触れていく。

私以外の存在があって構成される世界にいることに少しずつ気づいていく。

私以外の存在から様々にポジティブだったりネガティブだったりいろんなギフト(贈り物)をされて「好きなもの」「好きじゃないもの」を知ることになる。

そうして私ができあがっていく。

今の私って、この繰り返しの結果で、ギフトの集合体みたいなものだと考えられる。

ポジティブもネガティブも含めて、ギフトはつながりによって得られるもの。

自分は、他者とのつながりの結果なんだ。

 

「自分探しの旅」って、言葉だけ捉えたら寺で1人で座禅を組んでいても成立しそうな気がする。

旅って精神世界の中でも行えるはずだから。

でもたいていの人は、本当に移動するほうの旅を選択する。

旅に出れば知らない人、知らない町、知らない建物や文化に触れることになる。

目で見るもの、手で触れるもの、口に入るもの、口から出る言葉、すべて他者がつくったもの。

旅って、「他者に積極的につながりにいく行為」とも言える。

これって「つながり」が本質であるって、人間なら本能的には分かってるってことじゃないだろうか。

 

これまで受けとってきたギフトの中から自分の「好き」「好きでない」を知って、ある閾値を越えたときに自分が浮かび上がってくる。

このタイミングで、目の前に浮かび上がった自分を見つめてあげることになる。

やっと精神世界の旅に出る。

これまでどんなギフトを受けとってきたのかをたまに整理してあげると、この作業はやりやすくなると思う。

 

他者ってユニークで計り知れなくて輝いているから、自分もユニークで計り知れなくて輝いていていいんだって思える。

そういう場を見つけて、身を置くことが大切。

僕にとって鋸南エアルポルトはそういう場だった。

 

世の中のみんなとつながることができないことは理解できる。

人には人生の中でつくりあげた戒律があって、それをどうしても越えられない。

だから僕たちは、本質的にみんなとつながることができない。

それでも、つながろうとする。

いつか人が、言語を自在に操る様に、「自分の戒律」を自由に越える力を身につける。

その日がくれば、つながることは可能になると思うから。

変化を起こせる「つながり」の力を生み出せる場を、僕もつくりたいと思っている。

 

「あの人は輝いているから」って、勝手に心の依りどころにさせていただいている人がたくさん周りにいる僕は、他人に依拠することで自信を持っているし、自分を持っている。

湧いてくるものじゃない、受けとってきたものだ。

千葉県鋸南町で見出した「自分」は、つながりの集合だったって話。

 

Buona giornata.

余裕を持つこと

Buonasera.

 

新しい仕事、土地、社会的立場。

新しいものが大好きな僕は、毎日が新鮮な今の状況に幸せを感じる。

慣れを感じる場所や時間もできて、それらを依りどころに心の安定を保ちながらトライしていける準備も、着々と進んでいる。

そんな今「もっと余裕がほしいよね」なんてアドバイスをいただいた瞬間にインスピレーションが生まれたので、「余裕を持つ」ということについて書いてみることにした。

 

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そりゃ無理だ

まず結論から。

そりゃ無理な話だ。

アドバイスになっていない。

はじめての土地、はじめての職場で、はじめて医師として人の命や健康を扱う。

いきなり余裕を持てる人は、どれだけいるだろうか。

しかも「余裕を持て」と言われて余裕を持つことは、果たして可能だろうか。

余裕とは、他者に求めてもよいものだろうか。

余裕を持つまでにはいろんな要素があるだろうけど、「慣れる」という視点から3つに分解してみた。

1つめ「仕事に慣れる」

これが最も分かりやすいし、一般化しやすいと思う。
初めての仕事になれていくこと。
日々新しいことが目の前に現れる。
それだけで大きなストレスになる。
そこに「うまくいった」「うまくいかなかった」の自分もしくは他人(こちらについては後述する)の評価軸が入る。
今回はうまくいった、あそこはもう少しうまくできた、今日はだめだった…。
自分からも他人からも上がってくる振り返りだけで疲れてしまう。
この評価機構はより良くなっていくために必要だけれど、その分エネルギーを必要とする。

仕事は1人でやるものではないので、「他者に慣れる」という要素も含まれる。

まず仕事と他人に慣れるまで、余裕はないはず。

2つめ「場所に慣れる」

初めての土地、初めての職場で、自らの居場所を見つけるには時間がかかる。

ここにいても大丈夫。
ここにいると、どうやら邪魔らしい。

ここにいれば落ち着く。
この時は、これくらいの存在感を出すべき。

その場面、その場所で自分がフィットできる場所と適切な居る方法を場所ごとに見つける。

これができるようになれば、その居場所を拠り所に、自分の居場所を拡大していける。
こういう場所がない限りは、常に戦場に放り出された状態。

居場所がなくて気を張ってしまうのは無理もないし、居場所を見つけようとしてまた気を張ってしまう。

1つめと同様、場所も人間の意志がつくりだすものだから、ここにはすでにその場所にいる「他者に慣れる」という要素も含まれる。
居場所を探るのに精一杯な間は、余裕なんてない。

 

3つめ「人に慣れる」

この「人」という要素には、3つの視点が必要だと考えます。

 

①私が他人に慣れる

前述したとおり、1つめと2つめの両方に関わっているのが他人という要素。

仕事も場所も、人間の意志がつくりだすものだから。

こちらが相手を捉えて、おそらくこのコミュニケーションを取ることがお互いにとってよいだろうと、落とし所を探っていく。

少しずつその変数が「これくらいの幅で揺れ動く」ということが分かってくる。

この振れ幅を知ることが、他人に慣れること。

他人に慣れ始めることで、仕事にも場所にも慣れていく。

 

②他人が私に慣れる

こちらからあちらを見つめたということは、あちらもこちらを見つめている(ニーチェ?)。

すでに仕事にも場所にも慣れていた人も、新しい私という「他人」の出現によって起きる仕事と場所の変化を感じている。

すでに慣れていたはずなのに、相手にとって場所と仕事が慣れていないものになる。

これが解消されるためには、他人が私に慣れる必要がある。

こればかりは他人のペースがあるから、コントロールできないというのが重要。

 

③私が私に慣れる

大好きな詩から引用をひとつ。

牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、
自分のこと以外なら。

「軽口のバラード」(フランソワ・ヴィヨン)

 

 

私が私を理解することが1番難しい。

私が相手をコントロールできないことと同様、相手も私をコントロールできず、その相手が見つめる私は、私ですらコントロールできない。

いろいろ書いてきたけれど、結局は私自身が仕事や場所、他人との関係性の中に置かれた「今の私に慣れる」ことが、最後にたどり着く場所なのだろう。

「この場所では、私が私に慣れていない」という視点を持つためには、自らを客観視するメタ的な視点が必要となる。

これには個人の素養やこれまでの経験も必要になる。

私が私に慣れること。

これが1番難しいから人は自分を見失わないために、変化を嫌い、自らの行動を制限したり、他者を排したりするのだろう。

 

余裕を持つことは、口に出して求めることではない

もし誰かに余裕を持ってほしいと願うならば、言葉で求めてはならない。

その人が余裕を持てるようになるまで、大なり小なり支えていくことだ。

相手に余裕を求めてしまったとき、自らに決定的に欠けているものがあると自覚しなければ、何も始まらない。

余裕というのは個人が1人でつくりだすものではない、という視点が欠けてしまっている。

新陳代謝の中で「慣れ」をつくり出すことのできない個人および組織に、その先はない。
結局すべて自分に返ってくるメッセージになったので、余裕を求められた僕の経験は、貴重で代えがたいものだったといえる。
これを書き終えた今、余裕を求められたことに感謝している。

 

私が私に慣れるところまで。

他者が仕事や場所、私という他人、そしてその人自身に慣れるところまで。

焦らず揺れながら、いきましょう。

 

Buona serata.

食べてもらうこと、食べさせてもらうこと

Buongiorno.

 

食事をつくり提供する側になってから、母親や祖母のことを考える機会が増えた。

実家にいて部活動や習い事を一生懸命やってヘトヘトになり、ソファで寝転がっていたら「できたから、早く食べなさい」と声をかけられ、食べる。

試験前に祖父母の家に転がり込み、朝から晩までひたすら勉強していると「そろそろご飯ですよ」と声をかけられ、食べる。

その食事を食べるまでに僕が投下した時間や力はゼロ。

食べさせてもらう状態。

あの頃、「食べさせてもらっている」という意識は1ミリも抱いたことがなかった。

 

「食べてもらうこと、食べさせてもらうこと」に意識が向いたのは、コロナウイルスによって留学先のイタリアから戻されたことがきっかけだった。

学校は休学していて、大学に戻ってパンデミック下で1人暮らしをしても仕方がないから、実家で過ごすことになった。

突然戻ってきた僕に、しばらく離れていた実家で落ち着ける“居場所”はなかった。

物理的には自分の部屋が残っていてそこに居られるんだけど、それは滞在しているという意味でしかなく、両親と弟の3人による家族生活の中に、僕の居場所がなかった頃。

僕にとっての居場所になったのが、キッチンだった。

 

「家族のために平日の夕飯をつくる」

僕は役割を手に入れて、居場所を確保することに成功した。

そして突如「食べてもらう」立場になった。

 

少し前置きが長くなったから戻ろう。

食べさせてもらう側から「食べてもらう」側になった僕には、食べてもらう側の苦悩が見えるようになった。

連日、自らの時間を使って料理をつくることの大変さ。

出したものが適切なタイミングで食べられない時のもどかしさ。

食べてもらう側の「つくる」行為がいつの間にか日常になって、風景と化すこと。

誰にも感謝されることなくつくり続けることに疑問を持つことだってあった。

これはまさに母親や祖母が感じてきたことだったのだろう。

 

でも、食べてもらう側はつらいことで溢れているわけではない。

むしろ、食べてもらう側になることは、人間の最大の喜びの一つを知ることだと思う。

 

僕らは共に食べることによって生活を支え合い、お互いに無事を確認しあって生きてきた。

人と人の間、人が囲む輪の中心にあったのは同じコミュニティ内の誰かが、時間をかけて用意した食事だった。

誰かの時間が込められた食事は、用意した人、つまり食べてもらう人と、食べさせてもらう人の間をつなぐ。

食べさせてもらう人と食べさせてもらう人の間をもつなぐ。

「同じ窯の飯を食う」は、まさにこのことを指している言葉だ。

そしてこの人繋ぎの偉大な仕事をやってのけるのが、食べてもらう人なのだ。

「食べてもらう人」(用意した人)の存在が「同じ窯の飯を食う」を成立させている。

「同じ釜の飯を食う」というワードの中に、用意した人への感謝が込められていると信じたくなる。

 

人間の中に生まれる連帯感。

その連帯を支えたのは食事の場の食事そのものと、食べてもらう・食べさせてもらう関係だったのではないか。

現代的人間生活の潤滑剤は、日々のガソリンに置き代われただろうか。

何がエネルギーになるかを忘れて、一生懸命に潤滑剤を口にする僕たちが見える…。

 

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友人宅に招かれて時間を過ごす。

食べてもらう、食べさせてもらう関係の中に、食べさせてもらう側として参加する。

僕は食事を通して彼らの一部に触れる。

食事を介して、彼らの一部になる。

彼らは僕を自らの一部にする。

 

風呂に入り、食事を囲み、布団で眠る。

これだけのことが、あまりに難しい世の中で、食事の場の価値を再構築する。

食べてもらうこと、食べさせてもらうことの覚え書。

人生とキッチンの先輩に敬意を表して。

 

Buona giornata.

【プロローグ】鋸南の冒険の決め手は"彼"だった(冒険の覚え書)

Buonasera.

 

千葉県鋸南町鋸南エアルポルトで過ごした89日間の大冒険。

夢みたいな速度で夢みたいなことが過ぎ去っていった毎日を思い出そうとするけれど、早すぎて濃すぎた日々は掴み損ねてしまいそうになる。

 

僕は鋸南町で、海を渡り、山を登って、町の人と話し、魚を捌き、強敵を倒すために経験値を貯め、仲間を招いて、みんなで酒を飲んだ。

毎日冒険をして、勇者ではなく”医者であり起業家”を目指した。

鋸南修行編”は、たしかに終わりを迎えたんだ。

冒険の書ならぬ「冒険の覚え書」として、89日間をここに記してみようと思う。

今日は、大冒険のプロローグを覗いてみよう。

 

 

冒険の始まり

89日間起業家プラン」を利用して、2021年の11月終わりから鋸南エアルポルトに住み始めた。

つくりたい未来のために、鋸南に滞在することを決めたのはその2ヶ月前の9月のことだった。

その頃は"東京修行編"の真っ只中だった。

札幌で折に触れてお世話になっている先生に

自分はリアルの場づくりをしたい、(いわゆる)飲食店をしたい

と相談したところ、

 

「それは佐谷さんに会うべきだ」

 

ということで、つないでいただいたのが全ての始まり。

先生は元々、佐谷さんがやっていた世界初のパクチー専門店「パクチーハウス東京」のお客さんだったというわけ。

お互いの都合がついたことはもちろん幸運だったけれど、我ながらかなりの高速で動いた結果、次の週末には鋸南町へ行くことになった。

佐谷さんの本を手に入れて読んでみて冒頭で引き込まれ、ワクワクしてきた。

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内房線をぐるっと東京湾を回ってはじめての南房総へ。

佐谷さんと会い、"縄文アーティスト"まさやん、"キッチンカーアーティスト"ジャマさんとはじめまして。

おお、もう分からない。笑

 

到着してみんなで昼ご飯を食べた後、鋸山を登って反対側の金谷港に降りて再び戻ってくるという「鋸山縦走チャレンジ」に挑むことに。

往復20km超。

山に(走って)登って反対側の港で鐘を鳴らし、帰り道に酒を手に入れ、展望台で乾杯。

もう普通じゃない。笑

乾杯も佐谷さん流、全然普通じゃない。笑

(この乾杯、ハマると抜けられないんだけど、ここではあえて言及しません。知りたい人は鋸南町で飲み会に参加してください♪)

なんてめちゃくちゃな時間なんだろう。

本の内容も十分面白かったんだけど、それ通り、それ以上に、すでになんだか面白い。

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鋸山より

夜はひとり1品料理をつくって出し合ったり(この日の食事から得たインスピレーションはnoteでまとめているのでよければどうぞ)、次の日は朝から佐谷さんと海岸線を歩き、朝からビールを飲んだり。

これから長野で挑戦したいんだという僕の話をいろいろと聞いてもらったし、鋸南町という簡単にまとめると"田舎"である土地でトライする鋸南エアルポルトの話もたくさん聞いた。

刺激だらけでお腹いっぱいになった、あっという間の2日間。

帰り際、

「来週末もイベントあるから、また来てね」

とか誘われて、

(や、東京から電車で2時間半はさすがに遠い。そのペースでは来られぬ)

と心の中で思ったりした別れ際。

この2日間で、十分に刺激をいただいた。満足だ。

「よし、僕も改めてがんばるぞー!」

 

翌週末、2回目の鋸南

なんて吞気に心の中で「がんばるぞ」言ってたら、佐谷さんから連絡がきた。

 

「89日間起業家プランっていう滞在プランもあるから」

 

なんだと、あそこに住めるのか。

冒頭でも述べた通り、僕はリアルの場づくりをしたい、(いわゆる)飲食店をしたい。

その想いを買ってくれた先生がつないでくれた、その分野の先駆者である佐谷さんがやっている、僕の理解が及ばない面白いことにもっと触れていたい。

医師国家試験は2月に控えているけれど、そういえば札幌にいなければならない理由はどこにもない。

調整すれば国家試験直前まで、住めるじゃないの。

でも鋸南町、ほんとに田舎だったし、エアルポルト以外に目立って何もないような土地で、悪く言えば逃げ場がないとも言える。

そんなところでシェアハウスして上手くいかず、89日間後悔して過ごすことになるのはよくない。。。

 

そんなわけで、なんと次の週の週末に再び鋸南を訪れることに。

先週は”佐谷さんに会うため”だったけど、

今回は”エアルポルト鋸南のことをもっと知るため"に。

 

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2回目は、佐谷さんもいつも使っている東京湾フェリー鋸南入り

その週末はエアルポルトの共同オーナーである"縄文アーティスト"まさやんのイベントがあるとのことで。

佐谷さんは東京と鋸南を行き来する生活をしていて、まさやんがエアルポルトに定住している。

つまり、89日間滞在を決めたら89日間まさやんと一緒に過ごすことになる。

まさやんとフィーリングが合うかどうかが今回の訪問での課題になる。

若干の緊張感を覚えながら、懐かしさすら感じるエアルポルトへたどり着いた。

 

エアルポルト滞在の決め手となったのは、まさかの"彼"

といっても、実はほとんど滞在の気持ちは決まっていた。

1回目に来たとき、まさやんの作業スペースの中に1冊の本を見つけていた。

見覚えがあるカバー。

いや、まさかこんなところで見るわけが…。

こんな本、僕しか持ってないのかと思っていたのに(無論そんなわけないけど)。

 

その本の著者は"尾崎豊"。

尾崎豊のことを"往年の名シンガー"として認知している人はたくさんいるけれど、彼が本を、しかも小説を数点残していることを知っている人はほとんどいない。

のはずが、まさか鋸南町尾崎豊の本を手に取ることになるとは。

本がある時点で、まさやんが相当な尾崎豊ギークであること、間違いなし。

合わないワケが、ない。

(他記事でもちょくちょく引用しているとおり、尾崎豊は僕の人生を支えてくれた存在で、2020年に著書にも手を出し始めていました)

 

本を見つけたおかげで1回目の滞在の時点で僕も尾崎豊が好きだという話はしていた。

2回目である今回は、もう少しまさやんと尾崎豊についての話ができればと思ってやってきたのだ。

 

佐谷さん、まさやんとバーベキューを囲みながら、尾崎豊に限らずいろんな話をした。

自然と気持ちは決まっていく。

そして心から決めた。

「89日間滞在します!」

就職活動、卒業のための臨床実技試験、お酒からのオトナの食育に取り組む醸鹿の活動に、10月〜12月でインターンシップの予定。

極めつけに医学生生活の集大成、医師国家試験がやってくる。

 

生きる。

その実体は瞬間にしかない。

 

岡本太郎

 

なんとでもなるさ、やってやる。

ここに滞在することにこそ、価値があるはずだ。

札幌を出て東京に滞在したことで、環境を変えることが重要であることには気づいていた。

医師国家試験のためにきちんと札幌に居座って、医学部同期みんなと一緒に、合格のために自習室で日々勉強をする。

その限りなく合格率を高める生活を、手放すと決めた。

 

「医師国家試験はみんなと同じことをすれば受かる試験」

語り継がれる定説を前に僕が決めた鋸南滞在は、つまり賭けだ。

失敗の確率を高める方法だ。

それでも鋸南町で起きようとしていることを見ていたいと思った。

ここに来て賭けに出る。

「全て手に入れる」そう誓った学生生活、最後に守りに入ることなんてない。

 

89日間の大半は医師国家試験の勉強になってしまうけれど、と伝えたところ了承してもらえた。

覚悟は決まった。

ここで、学生生活最後の冒険を始めよう。

 

これは僕が千葉県鋸南町で挑んだ冒険の覚え書。

ハラハラドキドキする89日間のページをめくってみてください。

 

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まさやんのつくったエッグスタンド土器で、ゆで卵を食らった夜

それではまた次回。

Buona notte.