現代の食医 食べて飲んで生きる毎日

長野県で料理人/医者をしています。フィレンツェで料理人してました。

いつもと同じ太陽があがる

Buongiorno.

日本一の霊峰、富士山。

誰もが一度は憧れる山に人生初の登頂を果たした。

雲より高いところから、地球を見下ろす。

さっきまで見えていた満点の星たちが、等級の小さいものから順に姿を消していく。

水平線から橙色の光線が伸びてきて、光線の核である火の玉が現れる。

夜から朝へ、昨日から今日へ、バトンタッチが行われる。

人々が息を呑む。

心を震わせる。

 

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この太陽は特別か。

山で見る太陽と地上で見る太陽に違いを求めるのは人間だけだ。

今日も太陽があがり、また沈んでいく。

事実だけがそこにある。

 

夜から朝、昨日から明日という意味付けも人間が決めたものだ。

動物は昨日や明日を感じて1日や1年を感じて生きているだろうか。

元々は自分や周りの人間を守るために、

「昼間は行動する」

「夜はここに近づいてはいけない」

という知恵を共有するために概念化したのだろう。

この概念化こそが人間らしさなわけである。

作物を育てられるようになったのも、

「植えてから〇日で収穫できる」

という日にちの概念化による情報の共有の功績だ。

 

現代では1日、1ヶ月、1年を刻むことで生きる私たちが、その概念によって心を病んでいく。

予定まであと〇時間。

〆切まであと〇日。

資源が尽きるまであと〇ヶ月。

生き残るために生まれた概念が私たちを苦しめ、死を近づける。

 

人生100年時代と言われ始めて久しい。

謳っているのは誰だろう。

みんなが100歳という数字に向かって前ならえしていく。

個人も、企業も、政治も、社会も。

目指す100という数字にどんな意味があるのだろう。

実は2012年には「人生90年時代」という標語が存在した。

生きられる期間が延びて、90が100に変わった。

人間は約10年たって、90が100になって、より幸せになれただろうか。

 

今日の朝も、5時22分に富士山で日の出があがった。

私はシェアハウスのベッドで、太陽が昇りきったころに目を覚ました。

今日も太陽があがり、また沈んでいく。

 

繰り返す過ちのそのたび人は

ただ青い空の青さを知る

(覚和歌子「いつも何度でも」)

 

今日もあなたの世界に何かが起きる。

意味を見出すこともできる。

見出さないでおくこともできる。

しなやかさこそが人間の特権だ。

Buona giornata.

 

 

 

 

 

なりたい自分

Buonasera.

「なりたい自分」について文字にしてみる。

読み終わったあと、あなたの「なりたい自分」についても聞かせてほしい。

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中学の頃から医師という職業に憧れてきた。

分かりやすく人のためになる仕事であり、身近にいた医師の姿は尊敬に値するものだった。

「サラリーマンにはなりたくない」という想いもあった。

テレビや書籍で出会う医師の姿はかっこよかった。

今になっても、小学生がプロ野球選手を見るような目で医師を見ている。

 

その一方で、医師をはじめとした資格職がもつ「安定」というワードに想いが及ばなかったとは言い切れない。

「医者になれば食いっぱぐれない」と考えていた自分が確かにいた。

 

大学時代は様々なことに実に活発に取り組んだ。

実家を離れ自由を感じた。

医学の勉強も確実にこなしながら北海道という土地で、手に届く限り自分の可能性を試し続けた。

 

活力みなぎる生き方をその在り方で見せてくれたアーティスト、起業家、企業家との出会いが人生の捉え方を少しずつ変えていった。

医学を離れて料理の留学へ行ったのは、彼らに憧れた私が起こした「なりたい自分」への変革の1歩目だったのかもしれない。

彼らとの交流が、料理をしたい、自分の店を持ちたいという幼い頃からの夢を思い出させてくれた。

 

そんな一見充実した日々の中にも常に「満たされない」という想いが心の奥底にあった。

「何かが違う」

中学時代から抱いていたこの感情が消えることはなかった。

 

留学から帰ってきてもまだ「何か違う」という想いは消えなかった。

むしろ大きくなっていたかもしれない。

原因は中学時代からの、自分が医学部を目指していて、医学部生であり、これから医師になる人間であるという認識にあったと思う。

いつからか、自分の将来得られる安定した属性に依存してしまい、本当に自分が核の部分で求めていることが聞こえなくなっていた。

 

なりたい自分は、いつでも分からなくなる。

他者の評価や目指すもののイメージで認識は曲げられてしまう。

なりたい自分は、いなくなったわけではない。

誰の評価も気にせず夢中になったあの頃で、気づいてくれる日を待っている。

 

自分にすら縛られない自分。

それが私の、なりたい自分の姿。

あなたの「なりたい自分」はどんな姿をしているだろう。

Buona serata.

 

I can't really explain it
I haven't got the words
It's a feeling that you can't control
I suppose it's like forgetting, losing who you are
And at the same time something makes you whole

It's like that there's a music playing in your ear
And I'm listening, and I'm listening and then I disappear
And then I feel a change
Like a fire deep inside
Something bursting me wide open impossible to hide
And suddenly I'm flying, flying like a bird
Like electricity, electricity
Sparks inside of me
And I'm free I'm free

マインドフルネス

Buongiorno.

目の前で起こるものごとへの関わり方について、マインドフルネスという手法についての勉強の記録と座禅の話を。

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昔から仏教の、中でも禅の考え方に深いところで共鳴している。

同郷の鈴木大拙には心惹かれている。

起きたことに意味をつけたがるのが人間で、もちろん意味を見出しながらでないと乗り越えられないこともある。

一方で色即是空であり、空即是色である。

かつて書いた記事を参考にしていただきたい。

kamoshite-kuwa.hateblo.jp

 

意味をつけることに固執していては世界が見えてこない。

すべて空であると隠遁するのでも世界は見えてこない。

バランスが重要なのだろう。

 

それではそもそもmindfulnessとは。

mindful(形): 気を配る、意識している

仏教の瞑想をベースに生まれたマインドフルネスは、「今の瞬間の気持ち」「今の身体状況」を五感で知覚し、起きたことを起きたままに捉えていくこと。

過去や思考、感情に囚われない心を育てることで、集中力が向上することや幸福度が増すことを目的としている。

 

姿勢を正し、ただ自分の呼吸に意識を向ける。

目的意識を持ち、意識の中に生じてきた雑念を流していく。

名だたる一流企業が導入し、社員のパフォーマンス向上につながったという結果を残してきた。

 

ここで個人的に引っかかっておきたいポイントが、同じ「瞑想」を起源とする座禅とマインドフルネスは異なるということ。

 

仏教者が坐って行うのはマインドフルネスではない。

座禅には何かを得ようという目的は介入しない。

彼は、ただそこに坐る。

悟りへの道の過程の一場面として、彼が仏陀のように悟るその時に向けて。

しかし「悟るぞ」という目的意識ではない形で。

悟りは意識すればするほど離れていく。

坐るという目的のために坐るというのが正確だろう。

 

そこに「〇〇を達成しよう」という目的意識も、雑念を流そうという自我も存在しない。

ただそこに坐る。

身体の外側で起きることも内側で起きることも、すべてが「一(いつ)」なのだと認識することを信じて。

 

マインドフルネスは自我の意識による物事の捉え方をコントロールする。

座禅は意識を超えたところに向けて、ただ坐る。

起源を知り、差を知って、しかしこれらもまた異なるように見えて一(いつ)なのだと認識できる日に向けて。

Buona giornata.

 

 

 

 

 

 

 

 

原体験の再解釈

Buonasera.

最後に訪れてから20年も経った場所を訪れた。

あの頃とはセッティングが違いすぎて「懐かしい、のかな」という変わった感情を抱いた。

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人生の思い出深いシーンがある。

今のあなたの価値観の根底にある感情を揺すぶられた瞬間はありありと思い出すことができる。

「その時私はこのように感じたから、今でもその気持ちを大切に取り組んでいる」というのは仕事・生きる上であなたにも思い当たることがあるはずだ。

 

原体験と言われるものを信じること。

信念を見出して、大きなエネルギーを得ることができる。

ただ、信じてきた原体験だけでは必要とするエネルギー量を越えられない日が来る。

停滞を感じるのがこのタイミングなのだろう。

 

この時、2つ解決策が考えられる。

さらに別の原体験を認識すること。

車輪をもう一つ増やすようなイメージだ。

2輪、3輪と車輪が増えればそれだけ推進力が増していく。

 

もう一つ方法がある。

信じてきた原体験を再解釈するのだ。

「私」の眼から観察された原体験を信じている。

この「私」の視点から、その原体験の別の登場人物の視点へと移してみる。

その時参加していた他者の視点で原体験を解釈しようと試みる。

「私」がこれほど強烈に覚えている原体験を同時に経験した、もしくはその瞬間をつくり出したその人は、何をどう感じていただろうか。

もしその原体験があなたの答えようとする人間や社会の課題につながっているのだとすれば、その課題が「私」視点だけで語り切れるはずがない。

直接的にしろ間接的にしろ、相手や第3者がいてその原体験が形成されているはずだ。

同じ出来事を眺めていた彼らは何を感じていたかを想像する。

これによって原体験の理解が深まり、人生の1本の軸が更新されて、さらに厚く太いものになっていく。

原体験を再解釈し、つくり直す。

自らの中でRenovationが起きる。

 

より強い原体験から、より強いエネルギーを引き出す。

同時に課題の解像度が上がれば、儲けものだ。

Buona serata.

うんと早めの病院見学のススメ

Buonasera.

お給料をいただき働くことで見えてくる世界があるはず。

医師として1ヶ月の対価を得ることで医療者の働き方を知ることができるはず。

「早く知ってみたい」

その気持ちが半年後の卒業への気持ちを駆り立てる。

 

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最終学年としての病院採用試験が全て終わった。

医学部医学科5年生以下のためになればと思い、早めの病院見学のススメについて記録してみる。

それも、うんと早く行くことだ。

「お医者さん」の部分を社会人・ビジネスパーソンに、「病院見学」をOB訪問や職場見学に置き換えれば、医療系以外の学生にも当てはまるのではないだろうか。

 

初めての病院見学は3年生の終わりだった。

ある中規模病院の先生とのつながりで「よかったら見学おいでよ」と誘われたおかげだった。

今ふり返ってみても、病院見学のスタートは早ければ早いほどいいと思う。

そのスタートする病院はあなたが少しでも尊敬できる先生がいる場所だとベストだろう。

 

この1回目の見学で尊敬する先生と病院内外でゆっくりお話しできたこと、病院で働く他の熱意ある先生方と出会えたことが医師という職業へのイメージをグッと引き上げた。

医学科3年生までは医学の基礎を学び続けることになるため、現場のイメージがつかず

これから成る職業のイメージがないままに勉強しなければいけない。

これがけっこうつらい。

裏返すと医師のイメージができていると勉強のやる気が出る。

「あの先生みたいなお医者さんになるために、いま勉強しているんだ」

将来のイメージというのは誠に人の力を引き出してくれる。

医師のロールモデルは病院にいる。

病院見学に行かない理由はないだろう。

 

1人の尊敬できる先生との関係性が近くなると、芋づる式に他の先生の名前が出てきて次の病院見学や先生と会う機会につながったりもする。

医学生の周りに医師はいないが、医師のまわりは医師だらけ。

ちょっと考えたら分かることだが、なかなか視野の狭くなった(狭くさせられた)医学生にはこれが難しい。

 

こうしてどんどん病院見学のハードルは下がっていく。

いろんなお医者さんに出会えば、こういう風になりたい/なりたくない、が分かってくる。

「なりたい」と思える先生たちがどんなマインドを持っていてどんな働き方をしているか知ることで、あなたの目指す医師像が方向付けられていく。

 

6年間が終わったから医師になる、

ではなく、

6年間を終えて医師になりたい、

という主体的な医の道を歩き始めることができる。

常に主体的に医師を目指してきたことが、自分らしい医師の形を探す視野の広さにもつながっている。

うんと早めに病院見学をする。

そのためにはできるところから動くこと。

 

Buona serata.

 

〇〇主義の雲の下

Buongiorno.

あっという間に東京での1回目の平日が過ぎ去った。

このスピード感こそ、この場所の持つ力なんだろう。

これを体感したくてやってきたのだ。

自分の時間と体力には上限があるはずだが、周りのスピード感に乗せられて、不思議と力が湧いてくる。

上昇気流が吹いている。

この上昇気流の先に待っているのは何だろう。

 

「〇〇主義の移動」について昨夜、議論した。

資本主義、社会主義共産主義など〇〇主義にはそれぞれ適した土地があり、例えば資本主義は都会に合いやすい、社会主義は田舎に合いやすいのではないか。

この話をしたときに頭の中に浮かんだのが「〇〇主義の雲」とその下を動く人間の

イメージだ。

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〇〇主義の雲の下で、その土地は〇〇主義になる。

人間は動く。

元いた〇〇主義から離れるために、新しい〇〇主義の下で生きるために、人は移動することができる。

一方で雲もまた移動する。

せっかく移動して土地が変わったのに、また同じ主義の雲の下に置かれてしまう可能性がある。

 

これら雲を移動させる力が、経済や人の想い。

人が集まって念じることで、雲を引き寄せたり遠ざけたりすることができる。

しかしその力は、経済のそれと比べれば目に見えないくらい小さいものだ。

 

東京は基本的に資本主義の雲に覆われている場所なんだろう。

資本主義の雲は積乱雲だ。

他のどの雲より大きく、厚く育つものだ。

このスピード感はこの雲の下だからこそ生まれる。

ものすごい速度の気流が発生している。

経済だけでなく、この場所でこの雲を育てようという人の想いまで足し算されているからだ。

この雲の下は強い日差しを遮ってくれる。

さらに人が集まってくる。

 

強い日差し=ただ1人として生きること、としてみる。

容赦の無い光線が降り注ぐこの世界に生まれる。

自らの足で歩き始めたとき、世の中に降り注ぐ日差しを認知する。

この日差しを全身で受けるのは覚悟のいることだ。

火傷するかもしれない。

目が見えなくなるかもしれない。

他人とは違う姿になってしまうかもしれない。

雲の下にいれば、日差しを受けることについて思い悩む必要はない。

 

雲の下に出て、身体一杯に光線を浴びる。

雲の切れ間にも世界があることを知る。

その世界には入り方があって、その方法は人それぞれ違って、日の元で探し続けなければ見つからないものらしい。

Buona giornata.

 

 

 

人と会うこと

Buongiorno.

 

他人との関わりの中でしか、人は変われない。

2016.4.13 プレゼンテーションより

 

人と会うことについて話していたら、ふと2年生の時にサークルでプレゼンした内容を思い出した。

対面で会うだけでなく、本や映画や美術など作品もまた人との出会いの場になっている。

自分の中に閉じこもらず、なるべくたくさんの人に積極的に出会いに行くことが大切だ。

こんな話をした。

今でもその点まったく変わらない。

好きでやっていることだと思うと安心する。

 

ご縁をいただき本当にいろんな方にお会いできている人生だと思う。

時間をとってお話ししていただけたり、別の方や集まり、本や映画を紹介していただいたり、美術館の展示を薦めてくれたりと、人との出会いが次の人との出会いへとつながっていく。

人と会うときの態度、本を読む方法、芸術の鑑賞方法など、how toのようなことを語ることは時期尚早であるが、話題として「人と会うこと」を選んでしまった以上、何か語らねばなるまい。

今回は冒頭のプレゼンのきっかけとなった大学1年の春休みについて思い出してみる。

 

人と話すのは苦手だった。

人前に出て話すのも苦手だった。

そんな自分を変えたいとも願っていた。

大学1年の春休みに参加したある団体のイベントで、急に発表者を振られたのが大きなきっかけになった。

たどたどしい発表しかできず、質問を受けて頭が真っ白になって、大変悔しい思いをした。

発表を振ってきた人を恨まなかったかというと嘘になるが、結局は自らの準備・経験不足が原因にあると考えるのに時間はかからなかった。

そんな折、大学2年生から上述のある団体で役職をもつチャンスが来た。

中〜大規模イベントの準備・司会が大きな役割。

悔しい失敗のリベンジ。

自らを乗り越えるため、プレゼンテーションの本を読み込み自信をつけた。

(自分に対する負けず嫌い、克己の姿勢は元々あったらしい)

 

ここで「他人との関わりの中でしか、人は変われない」という言葉を見出した。

こうして努力して乗り越えようとするきっかけも、イベントに足を運び思わぬ挫折を味わったから。

前に進むきっかけは、人との関わりの中で起きたことだった。

一瞬発表を振ってきたあの人を恨んだ気持ちも、この気づきで浄化されていった。

 

本や映画が大きなきっかけになっている人もいるだろう。

作者の熱が伝わる作品は魂を揺さぶってくる。

直接人に会わなくてもたくさんのきっかけをもらえることは少なくない。

結局は対峙するあなたの姿勢次第だろう。

 

失敗も成功も人と関わり続けることの中から生まれ出る。

他者の存在が自己の過去、今、未来の認識へとつながっていく。

心を開いて他者と関わる。

書くだけだったらなんと簡単なことか。

いつまで経っても道半ば。

だから今日も面白い。

Buona giornata.